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土佐鶴酒造株式会社 ~歴史背景

土佐鶴酒造に到着した筆者は、鳳凰をモティーフにした「酒王 土佐鶴」のブランドマークに、ある種のデジャヴュを憶えました。
その大胆な構図と形は、どこかで見たような……記憶に甦ったのは、古い帆船の舳先や帆布に描かれていた船主紋でした。ありがちな揮毫だけを生かした酒蔵のロゴマークとは、かけ離れた意匠です。
土佐鶴酒造の歴史探訪は、この「土佐鶴」の酒銘の由来から始めましょう。
「当社の銘は、土佐日記の中で詠まれた『吉兆鶴(きっちょうづる)』に由来しています。作者は、紀 貫之(きのつらゆき)ですね。延長8年(930)年から5年間、国司として土佐に滞在した彼は、任期を終えて泉州へ帰る船上から青い土佐の海と松原に舞う鶴を眺め、一篇の和歌を謳っています」

見渡せば 松のうれごと 棲む鶴は 千代のどちとぞ おもふべらなる

「このゆかしい歌に綴られた“土佐の心”を、酒銘に掲げているのです」
そう語ってくれたのが、蔵元十一代目となる土佐鶴酒造株式会社 専務取締役社長室長の廣松 慶久(ひろまつ よしひさ)氏です。

廣松家は、戦国乱世の時代まで地元の領主・安田家に家老職として仕えていました。その後、江戸時代中期からの酒造業は十一代に至っていますから、武家も含めれば、気も遠くなるほどの累代を継承しているようです。
「廣松家の土蔵には、甲冑・刀剣をはじめとする歴代当主ゆかりの骨董・古美術品が封印されたまま納められているそうです。あまりの所蔵品の多さに、社長御一家も手がつけられないほどなのですよ」

インタビューに同席した常務取締役総務部長 兼 品質管理室長の杉本 芳範(すぎもと よしのり)氏はそう言って、町の鎮守「安田八幡宮」へ案内してくれました。
静謐な気配の中に佇む、伽羅色の社。境内に通じるきざはしには、「廣松 久吉(ひろまつ きゅうきち)」と刻んだ欄石が見られます。「久吉」の名は、現社長・廣松 久穰(ひろまつ ひさみつ)氏の祖父、父の二代が襲名しており、その大きさからも廣松家が氏子総代の座にあることが解ります。

ところで、土佐は江戸開幕と同時に山内氏が蔵主となりました。元領主の長宗我部氏は改易され、ひいては在郷旗下の諸氏も切髻を余儀なくされています。
廣松家も例外ではなく、この時を機に海運業を営みました。というのも、プロローグ編にレポートしたとおり、代々の廣松家当主は、鬱蒼とした魚梁瀬(やなせ)の森を育て上げてきました。その木材を使って和船十数隻を造り、安田の湊から江戸、上方へ極上の杉や桧を輸送したのです。
当初感じたロゴマークの謎に、符合するかのようです。
ちなみに江戸期の海運ブームは、菱垣廻船、樽回船の登場する18世紀中期ですから、廣松家は先見の明をもっていたと言えましょう。ましてや太平洋の荒波を越える帆船ならば、そのスケールたるや、目を瞠るものだったにちがいありません。

そして安永2年(1773)、廣松家は所有地の余剰米を使って酒造りを始めます。屋号を「西屋(にしや)」とし、ここに銘酒・土佐鶴が誕生しました。
むろん地元・安芸でほとんど消費されたのでしょうが、時代考証から見れば、当時は灘の酒が樽回船によって頻繁に江戸へもたらされた頃ですから、もし土佐から運ばれる清酒があったなら、それは希少な商品となったはずです。
「残念ながら当時を記した古文書や文献も、おそらく土蔵の中で眠ったままになっています。いずれ、明らかにしなければと思っていますが」
廣松 専務の弁によれば、仔細な歴史解明は自身の時代のテーマとのこと。
謎に包まれる土佐鶴物語ですが、壮大な中世ロマンは今しばらく美酒に秘め、珠玉の味で語り継ぐというところでしょう。

さて、弘化2年(1845)以後、廣松家は酒造業の道に専念します。
当時の蔵主は、廣松 万吉(ひろまつ まんきち)でしたが、詳らかな土佐鶴の歴史が紐解けるのは、その孫である蔵元八代目・久吉(きゅうきち)の時代からです。
久吉は、明治8年(1875)に安田村で生まれました。明治27年(1894)十九歳で家督を相続し「廣松久吉商店」を開業するかたわら、山林業、海運業、米穀商などを営み、土佐鶴の名を高知県一円に知らしめていきます。
そして三十四歳の時、廣松兄弟合名会社を設立し、代表に就任。探究心旺盛にして、新たな技術の導入へ精力的に取り組んだ久吉は、灘から酒造技術者を招き品質向上に努めます。



大正元年(1912)には社内に安芸郡酒造組合の試醸場を設置し、国の技官とともに酵母、酒母の改良を重ねました。さらに、大正末期にはいち早く琺瑯タンクを導入し、酒質の安定を実現したのです。
久吉は営業面でも手腕を揮い、大阪市、高知市など、矢継ぎ早に支店をオープン。
また、主要メディアであった土陽新聞に全ページ広告を展開し、読者をあっと驚かせます。それは当時の酒造業界の常識を超えた、斬新な試みでした。
昭和6年(1931)の大阪税務監督局の調査によれば、廣松兄弟合名会社の昭和5酒造年度の石高は、1,517石。高知県内130場47,456石の中では、第3位に座していたのです。
徹底して己に厳格であること、酒質へのあくなきこだわり、その反面、蔵人たちとの和を宝物にした久吉。安田商工会会長、安芸郡酒造組合長などの要職も務め、惜しまれながら、昭和11年(1936)に六十二歳の生涯を終えました。

そして、二代目・久吉の時代、土佐鶴はさらに羽ばたきます。
明治34年(1901)、20世紀の幕開けとともに誕生した二代目・久吉(九代目)は、時代の趨勢を読んだかのような、新進気鋭の人物でした。
その秀逸慧眼さをもって、高知市立商業学校を金モール(主席クラス)で卒業。昭和11年(1936)に蔵元を継承し、2年後に「廣松久吉商店」を改めて立ち上げます。
貫目氷による冷蔵が普及していた当時、二代目・久吉は「酒造りには欠かせない」と最新の冷房設備を蔵に導入し、先代の意志である品質向上を追求しました。

昭和18年(1943)には、戦時下の企業整備令によって安芸郡酒造株式会社が設立されましたが、あくまで単独経営を貫く二代目・久吉は、戦争激化のため大阪市の支店閉鎖などを被りながらも臥薪嘗胆の経営を続けます。
ようやく戦後復興に明るい兆しが見え始めた昭和30年(1955)、二代目・久吉は法人を「土佐鶴酒造株式会社」に改組し、代表取締役社長へ就任しました。

清酒ブームの到来とともに土佐鶴酒造の名は県外にも伝播。二代目・久吉も、日本酒造組合中央会評議委員を務めるなど、土佐を代表する蔵元として活躍の場を広げます。
その一方で、二代目・久吉は高品質への切磋琢磨をさらに極めていきます。
昭和42年(1967)に国税庁全国新酒鑑評会で金賞を受賞。社員・蔵人たちの声は「さらなる品質向上を!」と沸き立ち、この平成21年(2009)まで、史上最多の36回金賞受賞の金字塔を打ち立てているのです。
また、二代目・久吉は日本文化、芸術をこよなく愛し、詩に造詣が深い人物でもありました。昭和初期には名曲“七つの子”“赤い靴”の作詞家として著名な、野口 雨情(のぐち うじょう)とも交流しています。

昭和40年代、テレビの普及とともに土佐鶴酒造のCMが流れ始めました。十代目・現社長の廣松 久穰 氏が登壇すると、土佐鶴酒造は新たな戦略をもって東京へ進出、全国ブランドへの挑戦を始めます。

慶応義塾大学を卒業した久穰 氏は、東京での生活を通して、早くから大都市圏での市場戦略を構想していたようです。そして、代々受け継いできた「品質を磨く」ことに加え、マスコミによる宣伝へ取り組みます。関東や中部、近畿に暮らす高知県出身者にテレビCM・雑誌広告を使ってアピールし、その口コミによって土佐鶴ブランドを認知させる。ひいてはこれが、土佐の酒全般の人気につながると考えました。時代劇のCMは人気を呼び、そのシリーズは現在もオンエアされています。
昭和48年(1973)の土佐鶴酒造の製造石高は30,500石に達し、四国1位、全国38位の座を獲得。しかし、その地位に甘んじることなく、久穰 氏は自ら現場へ入り、研鑚に努めます。

昭和56年(1981)、久穰 氏は父親の二代目・久吉の逝去にともない代表取締役に就任。その後もひたむきに、意欲的に、土佐の蔵元として活躍します。いち早く高知県産米を使い、土佐酒アドバイザー制度の創設など「本物の土佐酒」に尽力し、業界リーダーとして貢献を重ねてきました。
平成8年(1996)に、安田町北大野の地に千寿蔵を、平成12年(2000)には天平蔵を新設。総敷地面積は40,000㎡以上。谷を埋めた広大なエリアに出現した白亜の棟は、まさに鶴が翼を広げたかのような趣です。
そして、六十三歳となった平成15年(2003)、秋の叙勲で黄綬褒章を受章。
「これまでご指導いただいた行政、業界の皆様のおかげです。でも、本当の貢献とは、さらに品質を高めることです」
喜びの談にも、日々研鑚を旨とする久穰 社長の人物像、廣松家の血脈が浮かびます。

そして、十一代目・慶久 氏も帰ってきました。昨秋まで、広告業界の第一線で腕を磨いた、頼もしい人物です。

珠玉の酒造りに一級品のプロデュースが加われば、次代の土佐鶴はさらに飛翔するはず。
土佐の蔵元230年の精進、それを遡る崇高な武家の血統……いごっそうの熱い心があるかぎり、土佐鶴酒造の全国新酒鑑評会 金賞の最多受賞は、今後もとどまることなく続くことでしょう。

※記事中の金賞受賞年度、受賞回数、役職等は取材当時のものです。