Vol.123 ヨーチン

マチコの赤ちょうちん 第一二三話

しっとりと雨に洗われた公園から漂ってくる草の匂いが、津田の鼻先をくすぐった。
それは昨夜、雨露をしたたらせていた御堂筋の街路樹の香りに似ていて、あの春雨が東京まで追いかけてきたかと、なんとなく嬉しいのだった。
埃が流され、夜気の澄んだ通りには、客たちの酔った声がこだましている。
「なるほど……今日は、給料日か」
どの顔も、普段より懐具合がよさげに見える。
眼鏡を指で押し上げながら、津田は小料理屋の前でたむろしている集団を一瞥した。ぬるい夜風がほろ酔いに心地良いのか、上機嫌の上司らしき男が「おっし!もう一軒、行くぞ!」と肩で風を切り、津田の横を過ぎて行く。
新人らしき若い男たちは、あきらめ顔で「ちぇっ、今日はDVD観るつもりだったのに」「俺も、wiiやりたかったなぁ」とぼやいた。
その重たげな足取りに、津田が「これも、勉強でっせ」と声を投げると、若者の一人は「おおきに!」と下手な関西弁でおどけてみせた。
「ほんま……愛想だけは、いっちょまえやな」
津田はつぶやいて、マチコに入ると、ぬる燗を頼んだ。
「しかし、最近の若者の会話は、何やもう、さっぱり分からんなぁ。BVDとか、カタカナばっかりや。ちゃんとした日本語かて、ロクに話されへんのに……困った時代や」
「ぷっ!津田さん、それってBVDじゃなくてDVD!下着じゃないわよ」
「さよか。まぁ、わしには、どっちでもええこっちゃ」
苦笑する真知子へ、津田が負け惜しみのように「日本酒!おかわり!」と口を尖らせると、後ろから松村の声が飛んできた。
「じゃあ今夜は、カタカナ抜きの会話っての、どう!?もし、ひと言喋ったら、一杯おごるの。おもしろくない?」
どこかで一杯引っかけてきたのか、すでに松村の頬は赤かった。
「まったく……身の程知らずね」
真知子が、眉根を寄せて呆れた。
その表情を気に入っている津田は、いっそう嬉しげに答えた。
「ふ、ふ~ん。カタカナの大嫌いなわしに向かって、無謀なことを言いよるなぁ。よかろう!いつでも、かかってきなさ~い!真っちゃん、今晩はわし酒代いらんで。うひゃひゃ!ところで、和也君。飲む酒は、何でもええのんか?」
「ええ、いいっすよ!ビールでも、あっ、しまった!」
松村が口を押さえるやいなや、真知子の手がレフェリーのように上がった。
「は~い、残念でした。それを言うなら、麦汁酒ね」
「く、くくっ、くっそ~。今のは反則だよ、誘導尋問じゃん」
松村の赤い顔は、さらに上気してきた。こうなると、根が単純なだけに、罠にはまるのは早い。
「あ~ら?まだ何も、決まってないじゃないの」
「じゃあ、ルール決めようよ、ルール!はっ!」
二杯目のVサインを見せ合う真知子と津田に、松村はがっくりとうなだれた。
その時、マチコの外で罵声と怒号が轟いた。
テーブル席の客たちは不安げな表情で、小窓を開けた。店前では数人の男たちが揉み合っていて、スーツ姿の一人は殴られたらしく、しゃがみこんでいた。
「警察が来たぞ、警察や!」
津田が格子戸の隙間から叫ぶと、汚いなりをした数人が蜘蛛の子を散らすように走り去って、背広の男が三人残っていた。
うずくまっているのは、ついさっき、津田におどけて関西弁を返した青年だった。
「おいっ、どないした?大丈夫か?」
津田の前で、男は友人に支えられながら立ち上がった。さほど深手を追ってないことが分かると、野次馬はつまらなそうに去って行った。
「……ちっ、ちっくしょう」
青年の頬に、赤黒い痣が浮き始めていた。
「どうしたの?君たち、喧嘩しそうなタイプじゃないだろ?」
腕を組む松村の後ろで、マチコの客たちも怪訝な顔をしていた。
「チッ!あいつら、いきなり“キレ”やがって……わけが分かんないよ!」
舌打ちする友人も、手の甲に軽い傷を負っていた。
「……和也君、とにかくこっちへ。怪我してるんでしょ」
真知子は和也をせかして、青年たちをカウンターに座らせると、薬箱から消毒液と茶色い瓶を取り出した。
「イチッ、痛ってぇ~」
頬を消毒されて顔をしかめた青年は、真知子が脱脂綿に塗った茶色の液体に「うっ、うわっ!ちょ、ちょっと!これ、何ですか!?」と鼻をつまんだ。
「ヨーチンよ。これが一番効くの!」
「お前さんらの子どもの頃は、便利な時代やさかいなぁ。シュッとひと吹きで治る薬ばっかりやろ。けど、これは、わしの時代からずうっと重宝してる、特効薬やで」
「ほ、本当っすか~?ぐっ、ぐぅ~」
頬の傷に染みるヨーチンに、同僚たちもおっかなビックリの顔だった。
「だけど、いきなり殴りかかって来るなんて、この辺りも物騒になってきたな」
松村が溜め息混じりで玄関先に視線を投げた時、「……ひょっとして、あれが原因かも」と、酔いの醒めたらしい一人がしゃべり出した。
彼らはコンピュータソフト会社に入社した新卒者で、いわばIT関連のエキスパートを目指している。今しがたの飲み会の帰り道、酔って饒舌になった三人は、歩きながら、業界用語や専門的な言葉を並べ立てた会話を自慢げに吹聴していた。
「僕らが熱くなってる時の会話って、普通の人には耳障りだと思うんです。合コンとかでも、『わけの分かんない。オタクみたいねぇ』って、たまに皮肉られるますし。さっき、僕の後ろにいた奴らも、けっこうウザイって感じてたのかも……」
「……まあ、それだけで暴れるちゅうのは、人として問題やな。けど……あんさんが言うことにも、一理ある。近頃の若い子は、周りのムードや雰囲気を気遣うことに、鈍感じゃ。デジタルの世界ばっかりにおるから、心もギスギス乾いてまうねん。心に、ちゃんと湿り気を持ってないとあかんな。それに、わしみたいな老いぼれには、あんたらの言葉はさっぱり分からん。同じ日本に住んでる者と思えん時もあるで」
津田の言葉に三人が沈黙すると、真知子は熱い茶を入れてやった。
「和也君、さっきの続き、みんなでやってみれば」
「えっ?あの、カタカナ無しの会話?……ふむ、おもしろそうだね!このメン……いや、面々なら」
口を濁した松村に「おっ、うまいこと誤魔化しよったな」と津田が笑い、青年たちにゲームを説明した。
青年たちは「やりましょう!」と即答すると、さすがに優秀で、しくじることなくカタカナを面白おかしい日本語に変えていた。
「インターネット」=「世界電子百科事典」、「ユビキタス」=「いつでもどこでも情報活動」などと、聞いているマチコの年配客たちを「うまいこと言うもんだねぇ」と感心させるのだった。
さすがに松村も負けん気を出し、すんでの所で言葉を呑み込んだりと、白熱したゲームに、若者たちもすっかり元気を取り戻していた。

ふと、頬の傷を気にする若者が、真知子に言った。
「あの、すみません。さっきの薬、もう一度塗りたいんですが」
「俺が塗ってやるよ。やっぱり“よーちん”って、効きそうだろ!」
とたんに、津田がお銚子を右手で掲げた。
「ほりゃ~!和也君、ごっちゃ~ん」
「えっ、何でよ!?言ってないじゃん。よーちんって、日本語だろ?津田さんも、さっき言ってたじゃん」
「いい~や。わしは、ひと言もヨーチンとは、言うてないでぇ。ヨーチンは、ヨード・チンキ。カタカナじゃ」
「げっ!うそ!」
唖然とする松村に、真知子が「はぁ」と溜め息をついた。
「あんたの知識って、ヨーチンどころか、幼稚園レベルねぇ」
笑い声が響く中、カタカナ言葉の聞こえない温かな時間が、マチコのカウンター席を包んでいた。