Vol.29 米のこころ

マチコの赤ちょうちん 第二九話

「ずいぶん静かじゃないか。久しぶりだってのに、どうしたの?」
そう言って肩を叩いてきた澤井に、カウンタ-席の田口 健は「ふうっ」と溜め息をついた。
田口が来てから小1時間、客席は賑やかだったが、本人だけが浮かない顔でぬる燗をなめていた。しゃかりきなタイプで、年のわりにオヤジ臭い奴と常連たちに冷やかされる田口は、マチコに酒を届けている秋月商店の営業マンで、あの宮部の若い部下である。
上司以上に日本酒談義を好み、彼の講釈が始まれば、しばしば煙たい表情を向ける客もいた。しかし、そんなうるさい田口の声がここしばらくは途絶え、今夜の彼もやけに大人しかった。
「何かあったの? 田口さん。“米のこころ”もう少しあるけど、飲まないの?」
訊ねる真知子に「……飲みます」と、田口は小さく返事した。彼のお気に入りの酒だった。
天才と評される丹波杜氏が造るその酒は、これまで数々の賞を総なめにし、全国の地酒を飲みつけてきた真知子も唸るほどの出来だった。
4年前、“米のこころ”に感動した田口は自ら蔵元へ足を運び、杜氏に会った。70歳を越えても酒造りに勤しむその杜氏に惚れ込み、新酒が出れば真知子へ勧め、自分用の一升瓶を店の冷蔵ケースに入れてもらった。
「次の1本、持って来といてね」
真知子が取り出した瓶は残りわずか、あと1杯で空になりそうだった。
「……もう無いんです。この酒」
冷酒グラスに注がれる酒を見つつ、田口がそうつぶやいた。
「えっ? 無いって、どう言う意味よ」
真知子が、慌てて一升瓶を立てた。
「杜氏さんが辞めるんです。佐野杜氏が……だから、二度とこの酒は飲めない」
横で二人の会話を聴いていた澤井が「佐野さんって“米粒を握っただけで、どんな酒になるか分かる”って人だろ。聞いたことがあるよ」と、グラスに半分入った薄黄色の酒をしげしげと見つめた。
田口はもう一度、深い息を吐いた。落ち込んでいるわけは、その杜氏の辞める理由にあった。
「その酒蔵、新しい設備を入れて、人員を整理するみたいなんです。これからは佐野杜氏無しで、出稼ぎ制は廃止して、若手中心に社員化するそうです。僕が思うに、何十年もすごい酒を造り続けたのは、やはり佐野さんのような杜氏や蔵人の技だと。それを捨てて機械化すれば、お客さんがいなくなると思うんです」
田口は溜まった思いを、吐き出した。彼が佐野の辞める噂を聞いたのは、去年の暮れだった。
真偽を確かめようと蔵元に電話をしてみたが、佐野は出てこなかった。
田口は筆不精な自分を忘れるほど、返事の来ない手紙を書き続けた。だが、とうとうその日がやってきても、佐野からはひと言の連絡すらなかった。
「これでお終いか……ちくしょうっ!」
田口は真知子の手から一升瓶を取ると、最後の一滴まで惜しみつつグラスに注いだ。その時、格子戸がガラリと開いて、宮部が高齢の男性を連れて来た。
「やっぱり、ここだったか」
宮部の声に振り返った田口は、目を瞠り、ポカンと口を開けたまま立ち上がった。
「佐野さん」
真知子と澤井が、「えっ!」と声を上げた。その白髪の男は、田口の隣にゆっくりと腰を下した。
男は背広の内ポケットから数枚の葉書を取り出し、田口に頭を下げた。
「心配をおかけしましたな、いろいろと。最後の酒造りだけは集中したかったもんで、どなたにも連絡せんかったんです。堪忍でっせ。なあ、田口さん。これまでわしは、酒を造ってきたんやのうて、酒が上手くできるように育てさせてもろただけです。匠とか技とか言われると、人の方が偉そうで……あくまで主役は米と水なんです。つまり、わしらの時代には、わしらの腕や経験が一番の設備だったちゅうことです。でも、今はもっとええ設備がでけてきた。それを上手に使って、人の能力と合わせていけば、わしらの頃よりええ酒ができるはず。その意味でも、これからは田口さんたちお酒を売ってもらう方に、もっと酒造りを分かってほしいんです。日本酒に関わる人みんなが酒造りを知って、お客さんにきちんと伝えて欲しいんです。それが、日本酒文化を大事にすることへつながると思いますねん」
佐野は背筋をしゃんと伸ばしたまま、そう語った。皺深い顔には悔やみも憂いも見えず、爽やかな印象だった。

真知子は、佐野の前にグラスを置くと、田口のグラスの酒を半分に分けた。
「よかったわね! 飲み干さなくて」
片目をつぶる真知子に、田口がはにかみながら、コクリとうなずいた。
「今年の米は、素直な心をしとりました」
佐野の笑顔が、田口の持つグラスの中で揺れていた。