Vol.45 忘れ物

マチコの赤ちょうちん 第四五話

白木のカウンターの上で、桃の蕾がふくらんでいる。
それを見つめる真知子の前には、少し日焼けした辻野の顔があった。
小枝は、辻野が津軽の自宅の庭から剪り取って来たもので、今日3月3日に33歳を迎える真知子へのプレゼントだった。
久しぶりの再会に、二人には、どことなく遠慮したような雰囲気があった。
真知子にしてみれば、三十路を過ぎての誕生日など気恥ずかしいものだったが、辻野まで呼び出して宴を催してくれる常連客たちの気持ちを思うと、ポッと温かい、少女のようなときめきも憶えた。
「でも、不思議なもんだな。今朝、青森空港じゃあ、あんなにしぼんでいたのになあ。やっぱり田舎者は、東京に来るのがうれしいのかね」
辻野はまんざらでもなさげに桃を見やると、剃り上げた顎をスリスリとなでた。マチコに通っていた頃、機嫌がいい時の辻野は、きまってその癖を見せた。
懐かしいそのしぐさに目を細めながら、真知子はぬる燗を注いだ。
「ふぅん……何だか辻野さん、詩人になったみたいね」
ほのかに紅く色づいた蕾が、二人の会話に耳を傾けているようだった。
「そうかい? 真知子さんにそう言われると、こっ恥ずかしいね。半年近く経って、ようやく東京の匂いが抜けちまって、土臭くなっただろ?」
辻野は、皺立った口端から白い歯をこぼした。そして、桃の蕾を触りながら言葉を続けた。
「津軽に帰って、最初はボーっとしててさ。オフクロと二人、家にいると、物音ひとつしやしねえんだ。風の音と鳥の声……それが、やけに耳に入って来るんだよ」
実家に戻った辻野は、田を耕し、稲を育てた。猫の額ほどの小さな田畑ではあったが、定年を過ぎた辻野にはキツイ日々の連続だった。
40年ぶりの土臭い汗と草いきれが、農家の息子だった頃を思い出させていた。
と同時に、向こう三軒両隣、近所の人たちの情けがしみた。
「“おはようさん”も“こんにちは”も、誰かれなく自然にあるものなんだ。ごく普通の言葉が、津軽の暮らしを支えているんだ。あらためて、自分が津軽人らしさを無くしていたと痛感したよ。でも、お蔭さんで、50年間眠っていた自分の種が、ようやく芽を出して来た。こいつも毎晩、飲んでるしな」
持参した津軽の地酒を嘗めながら、辻野はそう語った。 桃の花びらが開き始めると、澤井や水野たちが次々に暖簾をくぐった。 常連たちは、真知子へ誕生日プレゼントを手渡したが、辻野との旧懐を温める男たちに、真知子は自身の誕生日のことなど端から忘れていた。
そんな中、しょげこんだように肩を落として、松村が現れた。
「よう!和也君、久しぶりだな。うん?元気ねえな。どうしたい?」
辻野の声に、松村は一瞬作り笑いをしたが、また「ふぅ…」と長いため息を吐いた。
「何なのよ? 辻野さんが無理してはるばる来てくれたっていうのに、一番世話になった和也君がそんなことで、どうするの」 たしなめる真知子の言葉をさえぎるように、和也は答えた。
「分かってるよ!……実は、俺ドジしちゃって。真知子さんへのプレゼント、落としちゃったんだよ」
和也の声は、子どもが半ベソをかくように尻すぼみになった。その様子に辻野と真知子が顔を見合わせ「プッ!」と吹き出すと、周りの客たちもどっと大笑いした。
「何が、おかしいんだよ!」
松村は顔を真っ赤にして叫んだ。辻野がその肩に手を置いて、宥めた。
「ごめん、ごめん、すまねえ。笑ったわけじゃねえんだ。相変わらず真っ正直な和也君に逢えて、俺はうれしいんだよ」
辻野の言葉にようやく気を静めた松村だったが、プレゼントをどこで忘れたのかまったく思い出せないと、何度も愚痴を繰り返した。 その時、格子戸がガラリと開いて、駅前にある岡ラーメンの倅・浩太が息を弾ませ駆けこんで来た。額には、うっすらと汗がにじんでいる。
「あらっ!珍しいわね。浩太君、どうしたの?」と真知子が声をかけた。
「はぁ、はぁ、あの……これって、女将さんのじゃないかと思って」
浩太が差し出したのは、優雅な和紙で包んだ四角い箱だった。
「あっー! それそれ、おっ、俺のだよ!俺のプレゼント!」
興奮する松村は、浩太の手からとっさに箱を奪った。そして、勢いづいて包みを開け、「良かった、無事だった」とガラス箱に入った小さな雛人形を真知子に手渡した。
「ほぉー。こりゃ、いいねぇ」と、水野が感嘆した。周りの客たちも、その繊細な雛人形を口々に褒めた。
「しかし、どうして岡ラーメンにあったんだろ?俺、岡ラーメンには行ってないよ。ねえ?どこで、どうなって、君の店に?」
松村は、口数少なく立っている浩太に訊ねた。
浩太はしどろもどろで、成行きを説明した。岡ラーメンに夕食を食べに来たサラリーマンが、たまたま駅のキップ販売機の前で包みを見つけ、食事の後でそれを警察に届けようと、岡ラーメンの主人に「近くに交番は無いかな?」と訊ねた。 場所を教えた主人が、「それはそうと、何の箱だろうね?」と見れば、包み紙の端からメッセージカードが覗いていた。“真知子さんへ”の字に「見覚えがあるような……」とつぶやいた時、息子の浩太が出前から帰り、「それって、以前世話になったマチコの女将さんじゃないかな?俺、ちょっと見てもらってくる!」と持って来たのだった。
「そうかぁ、ありがとう。ほんとに、助かったよ」
表情を一変させた松村が、浩太の手を握って何度も頭を下げた。真知子も雛人形を手に、やれやれといった顔で浩太を見送ろうとしていた。
「……ちょい待ち!おい、和也君……お前さん、まだ、忘れ物してるんじゃねえか?」
辻野のおだやかな声が、マチコの中に響いた。
「えっ?……な、何を……」
和也がチンプンカンプンな表情で、辻野に答えた。澤井や水野も曖昧な面持ちで、首をかしげた。
「“ありがとう”は、そのサラリーマンに言わなきゃな。それが一番だろ」
「あっ!……」と声を発したまま、松村は黙り込んだ。静かになった店内で、「うん」という小さな声があちこちから聞こえた。「まだ、その人、お店にいるんだろ?浩太君」

辻野の問いかけに、浩太はコクリと頷いた。ひと呼吸置いて、松村が真知子と辻野を見つめ返した。
「俺、行ってきます!」
飛び出して行く松村の背中へほほ笑みながら、真知子は辻野に訊ねた。
「……今のも、津軽のお蔭なのかしら?」
「そうさなぁ……こいつのお蔭かな。和也君が帰って来たら、乾杯だな」
津軽の酒瓶に、ほころんだ桃の花が艶やかに映っていた。