Vol.48 ゴリ鰹

マチコの赤ちょうちん 第四八話

ダダダダッ、キーと、少しくたびれたエンジン音がマチコの玄関に響いた。
路面に散った桜の花びらが、その勢いにふわっと舞い上がった。
小太りの郵便配達の男がバイクを降りると、赤い車体がグッと起き上がったように見えた。
「マチコさ~ん! 速達ですよ」
男は玄関先から呼んだが、返事はなかった。
もう一度、男は格子戸から顔を覗かせ、叫んだ。それでも答えはなく、男は口吻を尖らせた。
「ちぇっ……留守かぁ。無用心だな」
そう一人ごちた途端、男は目の前で黒光りする物体に大声を上げた。
「おわっ! うまそうな鰹じゃないの」
床には氷の詰まったトロ箱が置かれ、丸々と太った鰹が横たわっていた。
初鰹には少し早い時期だが、切り落とされた尾っぽからは脂の乗った赤身が見えている
「5キロぐらいだな。あーっ、これって勝浦の鰹じゃないか」
木箱の朱色の文字に、男の手が無意識に伸びていた。
「ちょっと、勝手に触んないで!」
後ろから轟いた声に、男は思わず跳び上がった。振り向くと、怪訝な顔をしていた真知子が、「あら、いつもの郵便屋さん」と表情をゆるめた。
「あっ、す、す、すみません。女将さん、これ、速達です」
男は顔を真っ赤にして、真知子に封筒を差し出した。が、焦って後ずさりしたために、トロ箱につまづいてしまった。
大きな尻餅とともに男がひっくり返ると、鰹がまるで生きているかのように跳ね上がり、氷の塊とともに男の腹にドシンと落ちた。
「うぉっ!」と声を発すると、男は頭も打ったのか、そのまま唸り込んだ。
慌てふためく真知子だったが、どうにかこうにか男を椅子に座らせ、ヘルメットも脱がせて介抱すると、数分後に正気を取り戻した。
「まったく……頼むわよ。いつも真面目な郵便屋さんが、どうして寄り道なんかしてるのよ」
あきれ顔で溜め息する真知子に、男は額を手ぬぐいで冷やしながら詫びた。髪の薄くなった頭には、汗が浮いている。
「す、すみません……いや、情けない。どうにも、勝浦の鰹が懐かしくって」
「ふーん。磯村さんって、千葉の勝浦の出身だったの?」
真知子の目が、男の制服に付いている名札を見つめていた。
「は、はあ。そうなんです。親父は、鰹の漁師だったんです」
「どうりで、鰹が飛びつくわけね! いいわ! もうお昼時だから、休憩時間でしょ? この鰹、捌いちゃうから、ご飯食べてけば?」
「えっ、えっ?」と磯村が言葉に詰まっている間に、真知子はさっさと鰹を厨房へ運び、出刃包丁を取り出した。
カウンターでかしこまる磯村の前で、真知子のきゃしゃな腕がキビキビと動いた。見る間に三枚に下ろされる鰹に、磯村は「ひぇ~、大したもんですね。うちの親父よりも達者ですよ」と、口をあんぐりさせた。
「はい、出来上がり! まだちょっと硬い身だけど、お刺身が一番よ」
皿に盛られた赤身には生ワサビが添えられ、その香りがよけいに食欲をそそっていた。
磯村は少しためらっていたが、新鮮な鰹を前にして、その表情はしだいに和らいでいた。
「すみません……じゃあ、遠慮なくいただきます」
一切れ目を食べると磯村は静かになって、ふた切れ目を飲み込むと口をつぐんだ。そして、三切れ目を噛んだ途端、「うっ、うっ」と、嗚咽を洩らした。
「ちょ、ちょっと! ワサビ付けすぎた? お茶、入れようか?」
大きな背中をさすろうとする真知子に、磯村は手を横に振って答えた。
「……ちがうんです。やっぱ、勝浦の鰹だなって……親父を思い出しちまって。俺、若い頃、親不幸してたもんで、親の死に目に合ってないんです。最近は、墓参りにも行ってなくて。でも、この“ゴリ鰹”食ったら、やっぱり、勝浦の人間だなって、自覚しちゃって」
「ふーん、“ゴリ鰹”って、言うの?」
差し出す番茶の湯気の中で、真知子が訊いた。
「はい。勝浦の地元では、そう言います」
磯村が言うには、春まだ浅い頃の初鰹は脂が少なく、身が少し硬い。それに比べ、旬の5月頃の初鰹は“もち鰹”と言われ、しっとりとした柔らかさがあるそうなのだ。 「うちの親父は“ゴリ”が大好きで。こいつと勝浦の辛い酒を、夕方になると縁台で飲っていました……」

磯村は遠い目をして、その酒の銘柄をつぶやいた。
「じゃあ……この鰹、残して置くから、それは今夜、仕事が終わってからのお楽しみね」
真知子が棚に手を伸ばし、並んだ一升瓶を取ると、その後ろに見慣れない銘柄が現れた。「あっ、それです。それ…それ…」
「はい……霞んだ目じゃ、安全運転できないわよ」
真知子が差し出したおしぼりで、磯村は赤くなった両目を拭いた。
その瞳には、もっと赤い“ゴリ鰹”が揺れていた。