Vol.54 天の川

マチコの赤ちょうちん 第五四話

「うわっちゃ~。こりゃいったい、どうなってんだよ!」
格子戸を開くやいなや、骨が大きく曲がった傘を手にする松村は、大混雑しているマチコに驚いた。
カウンター席にはタバコの煙が白くよどみ、窮屈そうに座る常連の間で、新顔の客が立ち飲みをしている。厨房にいるはずの真知子の姿は、人垣で見えなかった。
松村は、横なぐりの大雨のせいで濡れ鼠になっていた。
時ならぬ大型台風が東海地方から日本海へ縦断中で、都内にも相当な影響を及ぼしていた。
「夕方に新幹線が止まってもうてなあ。おかげで、真ちゃんは大忙しや」
聞こえた声の方を見ると、徳利を傾ける津田がカウンターの隅でおいでおいでをしていた。
それに気づいた松村は「あっ! お疲れさまでっす」とハンカチで背広を拭きつつ、津田の横に立った。
「琵琶湖の近くで、民家の屋根が風で飛んでしもて、架線に引っ掛かったらしいわ。お陰でわしも帰られへんねや。東京駅近くのホテルは、どこも満員。ここの駅前ホテルまで来て、滑り込みセーフや。いつもは暇やのに、今日は人で溢れ返っとった。そこのお客さんが、マチコへなだれ込んで来たちゅうわけや」
津田はタバコに火を点けると、嬉しそうな顔で店内を見回した。
「そうなんすかぁ。七夕だってのに、大変な天気ですよね。外は、天の川ならぬ、雨の川ですよ」
松村がそう言うと同時に、汗を拭く真知子が冷酒グラスを荒っぽく置いた。
「七夕様も意地悪がすぎるわ。いくら私が相手のいない織姫でも、こんなにたくさん彦星様なんていらないわよ。はいっ! お酒は勝手に選んでね」 いつになく据わった真知子の視線が、厨房脇の冷蔵ケースを指していた。
「お~、コワッ。どっちかと言えば、織姫と言うより、鬼……」
「何ですって! 和也君、お勘定いらないから帰ってもらおうかしら? それとも洗い場、手伝ってくれる?」
腕まくりする真知子に、松村が「うへっ」と洩らして、冷蔵ケースから瓶を取り出した。
「うわっはは! おい、和也君。今日はおとなしゅう飲んどいた方が、わしらの身のためやぞ。しかし、こうして眺めてると、おもろいなあ。あっちの三人組は東北弁。こっちでミャアミャア言うてはんのは、名古屋の人やろ。奥の席の団体さんは、博多とちゃうか」
そんな津田の太い声も、満席の賑わいと通りを叩く雨に掻き消された。
空っぽになった酒瓶が厨房の床に並び、生ビールの樽は何度も交換されたが、10時を過ぎるとようやく雨脚は弱まっていた。
外の様子をうかがう客がひと組み、ふた組みと帰り出し、他の客たちもいっせいに腰を上げ始めた。ひとしきり勘定が済むと、残っているのはテーブル席の2人組と津田、松村だけだった。
テーブル席の男の一人が手洗いに行きすがら、松村の方をちらと一瞥した。
「さてと、それじゃあ、お手伝いいたしましょうかね」と松村がネクタイを緩め、盆を持って店内を回り始めた。
テーブル席へ足を運んだ松村が、ふと頭をもたげると、さっきの男がじっと見ていた。
「あ、あの……あんた、松村和也、和也君ちゃうか?」
男は冷酒グラスを持ったまま、声を震わせていた。
「おい、松村やんか!」
もう一人の頭の薄い男が、メガネを押し上げて叫んだ。
「えっ、あの……誰だったかな」
しどろもどろする松村に、メガネの男が顔を近づけた。
「あほっ! 僕や、今井や今井。こっちは、竹之内やないか。彦根中学で一緒だったやろ」
男は酒臭かったが、松村は目も口も丸くして、両手を叩いた。
「うわー、おー、なっ、懐かしいなあ! お前ら、何でここに居てんねん!」
興奮した松村は、いきなり関西弁に戻っていた。
「僕らも今の今まで、分からんかった。いっぱいお客さんがいてはったしなあ。さっきトイレに行った時、カウンターに置いてた彦根の地酒を見て、僕らと同じ酒飲んでるから、滋賀の人やと思うてたんや。この人も新幹線乗られへんかったんやなって。この酒、地元以外、知られてないしなあ。しかし……ほんまに奇遇やなあ、二十年ぶりの再会やで」
竹之内が少なくなった四合瓶を手にして、赤い顔をほころばせた。
「この酒、俺がたまに彦根の蔵元に注文して、送ってもらってんだよ。それを女将さんに置かせてもらっててね」
松村の柔らかいまなざしが厨房を指すと、二人の友人は「なるほど、そうやったんか」とうなずきながら、真知子を見つめた。
松村は席に腰を下ろすと、空いたグラスを差し出し、竹之内の酒を受けた。
「でも、ほんとに不思議だなあ。今日、お前たちが東京に来てて、新幹線に乗れなくて、たまたまホテルを見つけて、マチコに来て、俺と逢うって……これって、どんな確率なんだろ。と言うか、目に見えない何かで繋がってたってことだよな」
松村の言葉に、今井と竹之内は、「まずは乾杯!」とグラスを合わせた。
「和也君、やっぱり今夜は七夕さんに感謝せなあかんで。男同士で天の川を渡るのも、またオツなもんやろ」
松村が振り向くと、津田が滋賀の地酒を手にして、立っていた。
「はい、とっておきの肴もあるわよ」
真知子が、琵琶湖のふな寿司を皿に盛っていた。

「おっー! ええなあ。彦根におるみたいや。あの頃、天の川がキレイやったよなあ」
今井の言葉に、真知子が格子戸をそっと開けた。雲間に小さな星が、ひとかけらだけ光っていた。
「こっちからは見えなくても、七夕様は、みんなを見ていてくれたのかしら。すてきな日本の心……忘れちゃいけないわね」
真知子は空を見上げると、小さくつぶやいて合掌した。
男たちも「うん」と言ってグラスを飲み干し、嬉しそうに手を合わせた。