Vol.67 盆梅

マチコの赤ちょうちん 第六七話

「う~、さぶぅ!東京も、えらい冷えとるなあ」
革手袋をすり合わせながら、津田が暖簾をくぐってきた。その鼻先をマチコの店中から外に流れる暖気がくすぐった。
「うん?ええ匂いやな。おお!これはオツやなぁ、盆梅(ぼんばい)やないか」
大きく見開いた津田の瞳に、カウンターの手前に置かれた紅梅の盆栽が映っている。奥には、澤井と松村、そして水野の顔が見える。
その声に、真知子が熱いおしぼりを手にして言った。
「まだまだ寒いけど、もうすぐ、春なのよね」
「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花……か。マチコには、もう春が来たみたいやな。気持ちが温もるなあ。さすが、真っちゃん、よう気がきいとるわ」
嬉しげな顔をおしぼりで拭きながら、津田は松村たちに言った。
「ここに、盆梅が分かる風流人はおるかな?彦根出身の和也君はどや?盆梅は、滋賀の長浜名物やで」
「あっ、梅っすか?俺、酸っぱいのダメなんですよ」
もう酔いが回っているのか、頬を紅くした松村が声を大きくした。
「ダメだわ、こりゃ。風流のかけらもないわ」と、真知子があきれ顔をした。
「なるほどねぇ……だから、お前はいつも怒りっぽいんだな、クエン酸足りねえんじゃないか?あっはは!」
澤井のツッコミに、松村は「ちぇっ!」と口を尖らせた。
だが、津田の視線は、ふっと笑ったまま遠い目をしている水野に止まっていた。
「水野はんは、どうですねん?」
水野は、津田の声にハッとして、煙草の灰をこぼした。
「あっ、いや。……ちょっと、盆梅には思い出がありまして」
言いよどむ水野に、真知子たちの声が静まった。みんなの気持ちを察したかのように、津田がやさしく言った。
「ほう……それ、聴きたいですな」
一瞬ためらう水野だったが、酔った笑顔で「話してよ」と肩を組んでくる松村に「ふっ」と笑い返し、話し始めた。
水野が入社した頃、定年前ながら、降格されたばかりの係長がいた。周囲からは冴えない人物と疎んじられる存在だったが、水野を気に入ったようで、何くれとなく新人指導をしてくれた。
その上司と一緒にいると、同期の友人に「おい、あまり親しくしない方が、今後のためじゃないのか」と忠告された。しかし、酒に誘われることはなかった。
上司は「満開になってチヤホヤされる桜よりも、寒い頃に懸命に咲こうとしている梅の花が好きだ」と、窓から桜並木を見ていた。彼が同僚や部下と花見に行くこともなかったので、水野はてっきり飲めないのだと思い込んでいた。
1年後、その上司が定年になった日、水野は酒場に誘われ、驚いた。
正式な送別会は別の日に決まっていて、その日誘われたのは水野だけだった。
何の変哲もない小さな居酒屋だったが、上司は「晴れがましい席より、俺にはここが似合っているよ」と笑った。降格されて以来、誰も誘ったことのない彼だったが、そこは20年来通い続ける店だった。
その店のカウンターにも紅い盆梅が咲いてたと、水野は懐かしげに煙草をくゆらせた。
「酔った私は、その人に『なぜ、結果を出そうとしなかったのですか、桜になろうとしないのですか?』と絡みました。今思うと、ほんとに失礼なヤツでした。でも、上司は笑ってました。『結果を出せなかったんだよ、俺は。でもな、世の中みんな、その人なりに一生懸命やってるんだよ。結果だけがすべてじゃない。小さな蕾のまま、落ちてしまうかもしれないけどな……みんな、自分の花を咲かそうと、頑張ってるんだよ。水野君、華やかな場ばかり見てちゃいけないよ。桜を見る前に、梅の花を見ることだ。いつか君にも、分かる時が来るさ』って、盆梅の蕾をじっと見つめていました」
水野の声が止まると、テーブル席の客たちからも「なるほど……」と小さな声が洩れた。
「その梅、今、うちの庭にあるんです。元々、その上司が店に飾ってもらってたのを、その夜に頂いて、植え替えたんです。あれから20年……成長しましてね。大きな幹になりましたよ」
そう言って頬杖を突く水野に、津田がゆっくり近づき、熱燗を注いだ。
「ええ話しを、おおきに。で……今のあんさんは、梅でっか、桜でっか?」
「さあ、どっちなんでしょうね……梅でもよし、桜でもよし。自分なりの花を、いつか必ず、咲かせたいですね」
水野がカウンターの盆梅を見つめて、答えた。
その横顔に津田と澤井がほほ笑むと、ふいに松村が声を高めた。

「俺も咲かせますよ!デッカイひまわりみたいにね~♪」
途端に、真知子の声が返ってきた。
「何言ってんのよ。和也君が、一番分かってないじゃない。あんたは“盆栽じゃなくて、“凡才”なんだから」
「あちゃ~!こりゃ、参りました」
マチコの客たちの声に、盆梅の紅い蕾も笑っているようだった。