Vol.80 迎え酒

マチコの赤ちょうちん 第八〇話

帰省客の混雑がテレビニュースで報じられた翌日、都内のオフィス街は別世界の ように閑散としていて、まばゆい陽射しと蝉の声だけに包まれていた。
マチコの通りも人影はまばらで、その中を若い夫婦らしきカップルが、ゆっくりと歩いて来る。どこの家からか、夏の全国高校野球大会の放送が聞こえていた。
ベビーカーを押すその女性に日傘をかざしてやっているのは、松村だった。
二人はマチコの前で立ち止まり、「ふうっ、暑い~」と同時に溜め息を吐いた。そして松村の妻の由紀は、流れ落ちる自分の汗を気にもせず、ベビーカーに寝ている赤ん坊の額をタオルで何度もぬぐった。
その夫婦の背中に「お~! 太郎君、大きくなったなあ」と、聞き慣れた声がかかった。 振り返った由紀はようやく額を拭きつつ、「あらぁ、澤井さん。お久しぶりですう」と、火照った顔で会釈を返した。
澤井は由紀に手を振りながらベビーカーへ駆け寄り、「あばば~、元気でちゅか、太郎君」と子煩悩なところを見せた。と、その時「暑苦しいオヤジは、あっち行けって言ってるよ~♪」と宮部の声がして、ドッと笑いを誘った。
盆のさなか、常連たちが集まって来たのには、ちょっとした理由があった。
この夏も、真知子は盆休み初日まで予約が入り、帰省を諦めていたが、反対に宮崎の実家から、父の逸平が一年半ぶりに上京すると言い出した。
それならいっそのこと、マチコの常連メンバーで歓迎してはどうかと澤井が提案し、東京に留まっている人たちが揃うことになったのだった。
当初、真知子は遠慮したが、それを漏れ聞いて「わしも行くでぇ! 上りの新幹線は、すいてるやろ。真っちゃんの親爺さんとは年も近いさかい、いっぺん話しをしてみたかってん。願ったり、叶ったりやな」と小躍りする津田のようすにも断り切れなかった。
松村や澤井、水野たちも「何だか、ちょっと緊張するなあ~。でも、会ってみたいよね」と、誰もが初めて会う逸平を心待ちしているようだった。
「こんにちは……真知子さん」
松村が、いつになく緊張気味に格子戸を開けた。休みの店内はシンと静まっていたが、カウンター端に薄白髪の逸平が座り、その奥では真知子が料理を皿に盛りつけていた。
「あっ……いらっしゃいませ。どうぞ……どうぞ」
逸平は、松村たちを見るとさっと立ち上がってテーブル席に招き、「初めまして……真知子の父です」と腰を折るような深いおじぎをした。
九州訛りのぎこちない言葉だったが、逸平の皺深い顔には気まじめそうな人となりを感じた。
「いらっしゃい! あらぁ由紀さん、お久しぶりね! まあまあ、太郎ちゃんも一緒に来てくれたのねぇ」と、真知子は太郎の頬をチョンと指で触った。
「あ~、あ~」と喜ぶ太郎に、「ほうほう、ええ坊じゃ、ええ坊じゃ」と、逸平は目じりの皺をほころばせた。
全員が逸平との挨拶をすませてテーブル席に座り、「それじゃあ、乾杯しますか!」と、松村が酒とグラスを取りに行こうとした。 しかし、その時真知子は、周囲のテーブルやカウンターの空き席に、ひとつひとつ盃を並べていた。
「あれ? 真知子さん、他にもお客さんを呼んでるの?」
松村が訊ねると、真知子は「ううん……」と首を横に振りながら盃を置き続けた。
「……今日はお盆でしょ。このお店に来てくれたお客さんで、もう亡くなった方もいるはず……だから“迎え酒”。せっかく父が来てくれたし、今までお世話になったお客様にも紹介して、感謝しなきゃね」
「あっ……」と声を詰まらせる松村、「……そうだね」と感慨深げに腕組む宮部の上座で、逸平は真知子の背中に目を細めていた。
そして「よし! 俺も並べよう」と澤井が腰を上げた時、「ほな、みんなでやりまひょ! お父さんもご一緒に」と、玄関から野太い声がした。
パナマ帽をかぶった津田の横で、水色のシャツを来た水野もうんうんとうなずいていた。
津田と水野も加わり、マチコの店内にずらりと盃が並んだ。今は亡き常連客の辻野が座っていたカウンター席は、「僕がやります」と、可愛がられた松村がととのえた。
その一杯一杯に冷酒が満たされ、ようやく皆が乾杯をすると、真知子はすっと立ち上がり、各テーブルに小さなロウソクの灯りを点した。
ゆらゆらと揺らめく灯りを見つめつつ、逸平の隣へ座った津田が言った。
「お父さん……ほんまに、ええ娘はんに育てはりましたなあ」
「いやいや、皆さんのお蔭ですじゃ」
二人のおだやかな声を聞きながら、真知子は気恥ずかしくもあり、ちょっと誇らしいような気持ちになった。
逸平の優しげなまなざしの先を、どこから入ってきたのか、一匹のトンボがふっとかすめた。トンボはみんなの視線を集めながら、辻野の席だったカウンターに止まった。
全員が黙ったまま、トンボの銀色の羽根を見つめていた。
「……辻野さん、帰って来たね」 真知子がほほ笑みながら、ロウソクの灯りをカウンターに置くと、トンボはスイッと飛び立ち、今度は太郎のベビーカーの取っ手に止まった。

ブブンと羽根を振るわせるトンボに、太郎が「きゃっ、きゃっ」と声を立てて笑った。
「太郎……辻野さんとは、初めましてだもんな」
涙声になる松村の背中に、由紀がそっと手を置いた。
津田、澤井、宮部がそれぞれにうなずき、一緒に盃を合わせた。
逸平は、真知子の笑顔を見つめたまま、うまそうに盃を飲み干していた。