Vol.92 座布団

マチコの赤ちょうちん 第九二話

くぼんだ路面の薄氷が、青くうつろな月明かりをにじませていた。
マチコの小窓のすき間から冬の夜気がもぐりこみ、おでん鍋の湯気を優しくもてあそんでいる。
今夜は誰もまだ現れず、仕度をすませた真知子はカウンターに頬杖をつき、ついウトウトとしていた。すると格子戸がゆっくりと開いて、吹き込んだ風が真知子の鬢のほつれ毛をくすぐった。
「あっ……いらっしゃい」 はっとして顔をもたげた真知子が玄関を見ると、短髪に着物姿の男がひとさし指を口に当てて、「し~」と小さく言った。男は目だけを動かして、ガランとした店内を見回すと、ほっとした表情で入ってきた。
そのキョロキョロ動く大きな瞳に、真知子は見覚えがあった。
「あのう、もしかして……トン馬師匠じゃないですか?」
とたんに男は両手をバタバタさせ、「しっ!しー、しー。あんた、声が大きいよ!」と顔をひきつらせた。そして、「とっ、とにかく、あっしは奥の席に座るからね」と、逃げるようにして小上がりの座敷に向かった。
男は、最近売れっ子の落語家・円遊亭トン馬にまちがいなかった。
真知子はただならぬようすに、席から立つのも忘れて「ええ、ど、どうぞ」と生返事したが、今夜、駅前の公会堂でトン馬の独演会が予定されていたことを思い出した。
その時、通りでガヤガヤと声がしたと思うや、ガラリと戸が開いて、松村と津田が声高にしゃべりながら現れた。
「あの人ら血相変えて捜しとるけど、トン馬ってどんな奴や? 和也君。わしテレビをあんまし見いへんさかい、知らんわ」
「今、東京の高座で人気の、去年真打ちになったばかりの落語家ですよ。一流大学をトップクラスで卒業したエリートなのに、落研の延長線から噺家の道を選んだ人なんです。そんな個性が、ようやく花開いたみたいっすね。さっきのほっそりしたスーツ男は、マネージャーでしょうね。いかつい顔の着物姿のヤツは、確か“エン魔”って名の弟子です。あの雰囲気じゃ、たぶんトン馬師匠が行方をくらましたんだろうな。まあ、近頃は毎日のようにテレビやラジオに出てて、あれだけ忙しくしてりゃ、人間どこかでバッテリーがキレちゃうかも。業界人の僕の勘じゃ、真打ち早々スキャンダルになるとマズイから、回りのスタッフはあんなふうに『トン馬師匠が、道に迷ったらしいんですよ』しか言えないんですよ。ブン屋のダチに、チクっちゃおうかなあ。あっ、真知子さん、大変だよ!」
興奮した松村がようやく真知子に声を発すると、今度は真知子が立てた指を唇に当て、店の奥を目でさした。
「うん? どないしたんや、真っちゃん?」
津田がけげんな顔をするのと同時に、松村が真知子の視線を追った。
「うわっ! ととと、トン馬師匠!」
両手をスリスリして哀願するトン馬に松村が仰天すると、その口を真知子がパッとふさいで、つぶやいた。
「今さっき、隠れるようにしてやって来たんだけど……なるほど、和也君の読みが当たってるかも」
津田がメガネを指で押し上げながら「ふ~む、こないなるとワシも真っちゃんも、ほっとけん性分やなあ」と苦笑し、しおれかけのトン馬に歩み寄った。
その状況を敏感に読み取ったのか、トン馬は津田を迎えるようにおじぎして、口を開いた。
「……旦那、そっちの若ぇ方が言ったとおりなんでさあ。魔がさしたと言いますか、一瞬、何もかもが嫌になっちまって……面目ねえ」
「ワシはあんさんのことを、よう知りませんけど……そないにマスコミの仕事で毎日忙しかったら、以前ほど噺(はなし)の稽古もでけしませんやろ。真打ちになったものの、その責任から焦りも生じて、知らん間に心が悲鳴を上げてくる。けど、今売れてるチャンスを逃したないし、結局、無理せんならん。いつの間にか不安がつのって、高座に出るのが怖くなる」
よっこらしょと、津田はチェック柄のハンティング帽を脱ぎながら、小上がりに腰を下ろした。
「そ、そ、その通りで……お見それしやした。この頃は早朝のワイドショーとか重なって、毎晩好きな酒も飲めねえし。そのせいか、イライラすることも多かったんです。だけど……どうして、そこまでお解りになるんで」
舞台の上とはちがって本気で目を丸めているトン馬に、津田がニンマリと笑った。そして、トントンと机で叩いたタバコに火を点けると、一服ゆっくりと吸い込んだ。
「トン馬師匠……高座に上がった噺家ちゅうのは、お客さんからは楽しげに喋ってるように思われてますけど、実は神経を使う、かなり疲れる仕事ですなあ。お客さんの表情、笑い声の大きさ、そのタイミング。そんなもんを肌で感じながら、自分だけにでけるおもろい噺をせんならん。そのためには、稽古をおろそかにはでけませんなあ。……ずいぶん昔、ワシの友だちに、将来は関西の落語会を背負って立つやろう、自分の師匠を越えるような名人になるやろうと言われた噺家がいてましてん。その人も、あんさんと同じような、国立大学出のエリートやった。独特のキャラクターがマスコミに受けて、コマーシャルなんかにもよう出とったけど……最後は行方が知れんようになって、自分で命を絶った。遺書に、こんな言葉がありましてな……『気がついたら、ぎょうさん積み上げた座布団に座ってしもうてた。けど、いつかはそれが崩れて、ひっくりかえってしまう気がしてた。高座に生きる人間やったら、座布団はたった1枚。デンと腰を落ち着けて稽古するためのもんで、よかったんや』ちゅうことやった」
ゆらゆらと昇る煙が、津田の言葉を吸い込みながら紫と白にかがよっていた。
「……あっし、その事件を存じてます。つい最近も、今の自分と重ねてました。もっとも、死ぬこともできずに逃げ出したあっしなんぞ、その人と比べようもありませんが」
トン馬が、はあっとため息を吐いて、肩を落とした。
その時、津田の太きな声が響き、マチコの小窓のガラスをビリビリとふるわせた。
「おまはん、あほか! 死ぬぐらいやったら、逃げる方がずっとマシじゃ。生きてたら、いつかまた、出直せるんや。あんさんは、今回、世間と迷惑かけた人らにちゃんと謝って、償いをして、もういっぺん最初からやるんや」
その声の余韻がしばらく漂う中、思わず硬直しているトン馬の前に、真知子が粋な模様の湯飲み茶碗と小紋柄のおしぼりを置いた。
「……もう一度、最初に戻ればいいことじゃないですか。難しいことじゃないわ。それに、腕が落ちてるって言うけど、それだって自分の思いこみがあるんじゃないかしら。今、ここで、津田さんに聞いてもらえば、どうかしら。噺の稽古って、まずは話す人と聞く人の二人で始めるんでしょ」
はっとしたトン馬は、そのために真知子が茶碗とおしぼりを用意したことに気づいた。
「それじゃあ、お気持ちに甘えさせていただきやす」まずは口を潤そうと、トン馬は湯飲み茶碗に口をつけた。
「こ、こりゃ……うめえ酒だ!」
驚きをあらわにするトン馬に、真知子が「久しぶりに、好きなお酒で気持ちをゆるめて、口も心も湿らせたら、きっと自信が戻るはず」とほほ笑んだ。

「さすが、真っちゃんや」
津田が、ウンウンと満足げにうなずいた。酒瓶を手にした松村が、津田の横の座布団に座って、「トンマ師匠、何とかなりますよ! 昔から言うじゃない。『人間万事、塞翁がトン馬』っすよ」と叫んだ。
途端に、真知子の手が動いた。「あ~あ、すべっちゃった。座布団、取っちゃおうっと!」
トン馬の顔に、忘れていた素直な笑みと血色の良い赤い頬が戻っていた。