Vol.170 万願寺とうがらし

ポンバル太郎 第一七〇話

 梅雨は完全に明けたと気象庁が宣言した宵の口、隅田川には屋形船の灯りがいたる所で揺れていた。お台場の川面には、胡麻油のいい匂いが漂っている。
 江戸前の天婦羅と夜景を楽しむ屋台船ツアーは、今年も外国人観光客で満席。その取材を終えてポンバル太郎へやって来たジョージが、カウンター席の中之島哲男と火野銀平へ興奮冷めやらぬ顔で語っている。

「ファンタスティック! 何度乗っても、屋形船は風流ですね! 銀平さん、あなたの叔母さんの屋形船“お松丸”で、また宴会をしましょう!」
 紅潮しているジョージに、しかめっ面の銀平がグラスの純米吟醸を飲み干した。太郎が今日仕入れたばかりの、伏見の夏向け生酒である。
「あのよぅ、松子のバアサンは、俺にとっちゃ鬼門なんでぇ! 自分から鬼ババアの説教地獄に落っこちるバカが、どこにいるんでぇ」
 口汚い銀平に、カウンター席の隅に座る二人の男が一瞥をくれた。銀平を見知っているらしい一人はブルゾン姿の三十歳前後、連れの若者は汚れたTシャツとジーンズで、どちらも汗の臭いが強かった。
 二人が舌打ちして目をそらすと、カツオのたたきに土佐の本醸造のぬる燗を合わせていた中之島が銀平をイジッた。
「銀平ちゃん。悪口言うてたら、松子さんが現れるでぇ。ほら! 来よった!」
 中之島の脅しに、玄関を振り返った銀平が蒼ざめた。扉のガラスの向こうで、女物の和服がうごめいた。
「うっ、うへ! や、ヤベエ!」
 銀平が思わず腰を浮かせると、ジョージも開いた扉を凝視した。だが、鳴子の音に続いたのは、まったりとした京言葉だった。
「ご無沙汰して、すんまへん。太郎さん。お久しゅうございます」

 藤色の正絹に鶴柄の帯をまとった仁科美江へ、客席から「ほう~」と感嘆の声が洩れた。初めて美江と逢うジョージは目をしばたたき、歳を重ねても衰えない京美人の身なりに、太郎もさすがと深くお辞儀を返した。
「ようこそ、おいでくださいました。中之島の師匠から今晩いらっしゃると聞いてましたので、去年、美江さんのお店“若狭”で味わった伏見の純米吟醸をご用意しています。ただ、ちょいと無粋な奴が、先に飲んじまってますがね」
 太郎の口が向けられると、松子じゃなく美江だったことに胸を撫で下ろしていた銀平はまた蒼ざめた。
「な、何でぇ、太郎さん! そ、それなら、そうと先に言ってくれよう」
 今しがたの威勢から一変して腰くだけな銀平を、カウンター席の男たちが鼻先で笑った。ジョージも苦笑いしたが、美江は久しぶりの銀平へニッコリと笑みを浮かべた。
「銀平はん、かまわしまへんえ。今夜は、その伏見の純米吟醸と合う万願寺とうがらしの肴を、あてが作ってさしあげます」

 手に提げる和紙包みを、美江がカウンターに置いた。包み紙には“京都 錦市場”と筆で書かれ、そこから取り出されたのは緑濃い大きなとうがらしだった。
「ゲッ! み、美江さん、冗談じゃねえっすよ! そんな辛ぇもん食ったら、口が腫れるどころか、死んじまうんじゃねえですかい?」
 真顔で返す銀平へ、太郎が
「はぁ……また、バカ丸だしかよ」
と溜め息を吐くと、中之島が思わず吹き出した。
「銀平ちゃん、正味で言うてんのかいな。ほんまに、おまはんちゅう男は魚一筋やなぁ。この万願寺とうがらしは、ごっつう甘いんや。ガッハハハ」
 中之島は美江の肩越しに万願寺とうがらしへ手を伸ばすと、これ見よがしに齧った。
「オウ! なんてことを!」とジョージが辛そうに目を背けた時、カウンターの男の一人が声を荒げた。

「おい、あんたら。その万願寺とうがらしてえのは、京野菜だろ。悪いがよ、俺たちゃ、御高く留まってる京野菜てえのが、どうも気に食わねえ。目ざわりだから、とっととしまってくれねえか」
 口調は江戸っ子ながら、若さが抜けていない二人の視線に凄みはない。それでも美江は顔をしかめる中之島の肩に両手を置きながら、丁寧に男たちへ頭を下げた。
「あら、堪忍。けど残念どす。いっぺん、じっくり食べてみておくれやす」
 美江のはんなりとした声音が終わるやいなや、無礼な若僧とばかりに銀平の怒り声が飛んだ。銀平も、その男たちを思い出したようだった。
「やい! てめえら、やっちゃ場だな! おめえは確か、八百甚の誠司ってんだろ」
 銀平の売り言葉に買い言葉で、ブルゾンの男が捲し立てた。
「何でぇ! だったら、どうなんでぇ!」
 もう一方の若い男が、「俺は、五郎だ!」と腰を浮かせた。
 慌ててジョージが「や、やめましょう!」と両手をバタつかせた時、美江の張りのある声が店内に響いた。
「銀平はん! やっちゃろうかなんて、喧嘩を売ったらあきまへん!」

 さっきとは一変して、祇園の女将らしい凛とした姿勢に客たちの視線が集まった。だが、銀平だけでなく、相手の男二人も不意を突かれたようにキョトンとしていた。
 途端に、今にも割って入ろうとしていた太郎が苦笑した。
「あのう、美江さん。やっちゃ場ってえのは江戸っ子の間じゃ、青物市場のことなんですよ。だから、こちらのお二人は、築地の野菜市場の人たちってこと……ですよね?」
 確かめる太郎へ、拍子抜けしたのか二人の男は「ああ、そうだ」とふて腐れた口調で席に腰を戻し、冷めた本醸造の盃をあおった。
 それでも鼻息の荒い銀平を中之島は襟首をつかんで座らせ、相手の二人もたしなめた。 
「しゃあけど、あんさんら、まだまだやなぁ。万願寺とうがらしっちゅうのは、ブランド京野菜でっけど、昔からの本来の京野菜とはちゃうで」
「えっ!? そんなわけ、ねえよ! ちゃんと京野菜って、箱には書いてあんじゃねえか」
 五郎が食い下がると、続けようとする中之島へ美江が頷き、誠司と五郎にまっすぐ向いて答えた。
「そうどす。箱だけやなしに、お店のメニューかて、今やブランド京野菜と表示されてます。けど、ずうっと昔からあった野菜ではない物もありますえ。万願寺とうがらしは、いかにも京都のお寺さんで生まれたような名前どすけど、実は京都の北、日本海側にある舞鶴市の万願寺地区で、大正末期に在来種の伏見とうがらしとピーマン種のカリフォルニア・ワンダーで作ったんどす。そやから、純粋な京都の伝統野菜ではないと思います」

 万願寺とうがらしを手に取った美江は、太郎に目顔で厨房を使うと伝えた。そして調理しながらの話に、店内の誰もが聞き耳を立てた。抜け目ないジョージは、いつの間にやらメモを取っている。
 地元では「万願寺甘」と呼ばれているが、開発された頃は、時々辛い物ができたり、紫色に発色するものがあったりしたが、9年前に「京都万願寺1号」が品種登録され、4年後には「京都万願寺2号」が生まれ、露地物のほとんどが新品種に切り替えられて、辛味がなくなった。そして今では、こんな万願寺とうがらしもあると、美江は真っ赤な物を客たちへ見せた。
「これは、赤万願寺どす。収穫を遅らせて、木になったままにしておくとパプリカみたいに赤うなります。ほんのりと甘いから、伏見の柔らかい旨みのお酒によう合いますえ」
 美江の使う包丁と俎板の心地よい音、万願寺とうがらしを焼く炭の香り、そして昆布と鰹節のダシの匂いに、客たちは鼻をひくつかせた。むろん誠司と五郎も、唾を呑んでいた。

「誠司の兄貴……あれ食って、うまかったら、万願寺とうがらしって八百甚でも売ってみてえ」
「あっ、ああ。絶対、うめえ気がする。うちの親方に、提案してみようぜ」
 旗色が悪くなった二人のつぶやきを、中之島の太い声が包んだ。
「気に入った! ええ心がけや! わしの奢りで、仕切り直しに奥のテーブル席で一献どうでっか?」
 誠司と五郎がまんまと誘いに乗せられると、万願寺とうがらしの焼き物と煮びたしを用意した美江が嬉しそうに言った。
「あいかわらず、人たらしどすなぁ……まあ、あてが東京へ久しぶりに来ましたのも、中之島さんから隅田川の屋形船へ乗ろうて、誘われたからどすけど」
 途端に、焼きたての万願寺とうがらしを銀平が吐き出した。
「ゲホッ! えっ! それって、もしかして!」
 その時、玄関から鳴子のけたたましい音と聞き覚えのある声が飛んだ。ジョージが「ワオ! 松子さん!」と躍り上がった。

「仁科美江さんって、いるかい!? 明日のお松丸にご乗船、ありがとうございます! 中之島さんに、今夜ここへ来るって聞いてねえ。祇園の女将さんと逢えるなんて、あたしゃ光栄だよ! あれ? 銀平じゃないか? お前、また飲んだくれてんのかい!」
 苦虫をつぶした顔の銀平に松子が詰め寄ると、美江は初対面の挨拶もそこそこに、事情を説明した。
 小言を始めた松子に、銀平が言い返した。
「てやんでぇ! あんなアオニサイに、負けてたまるかよ! こちとら築地で産湯を使った、チャキチャキの魚屋よ」
 啖呵を切る銀平に、ジョージがペンを走らせながら訊いた。
「さすが、銀平さんです! ところで、アオニサイって、どんな字を書くんですか? 教えてください」
「おう! まかしときな! ジョージ、アオニサイも書けねえようじゃ、おめえも日本語はまだまだだな」

 銀平は、松子の説教の腰を折ったジョージからメモを奪うと、“青二菜”と書いた。
「まったく、本当にバカだね! 築地の恥さらしだよ! 貸してみな!」
 飽きれた松子が“青二才”と書き直すと、まちがえた銀平は口を尖らせた。
「ええい、こんちくしょう! 青物を扱うやっちゃ場の奴らなんだから、野菜の“菜”でいいじゃねえかよ!」
 悔しまぎれに、美江の焼いた万願寺とうがらしを二、三本咥えた途端、銀平が悲鳴を上げた。
「ギエェ~! か、か、辛い! 太郎さん、み、水をくれえ!」
 唖然としている松子の隣で、美江がいたずらっぽく言った。
「あら! 久々に、辛いとうがらしが混じってたみたいやわぁ」
 ジタバタして真っ赤になる銀平を、客たちの爆笑が包んでいた。