Vol.196 ネギマ鍋

ポンバル太郎 第一九六話

 元旦から三日間降りしきった雪がスカイツリーの天辺で凍りつき、落ちてくる氷片のせいで入場が制限されていた。あたかも札幌の景色と見まがうほどの銀座では滑って転倒する人たちが続出し、救急車のサイレンも聞こえている。

 昼下がりのポンバル太郎に向かう通りでは、サクサクと長靴で新雪を踏みしめる火野銀平が先に着いてる右近龍二の足跡をたどっていた。転ばない策には、賢明である。 
 銀平が火野屋のロゴを染め抜いた厚手の綿入れ半纏を着込んでもやって来た理由は、太郎の奢りで毎年恒例の常連新年会が催されるからだ。
「へへ! この大間の鮪。キレのいい辛口の新酒にゃ、脂ののった大トロがすこぶるつきに合うぜ。銚子のおしたじ(醤油)に、静岡の本ワサビをツンと効かせてよう」
 悦に入って独りごちる銀平は右手に提げる重たげなトロ箱を左へ持ち替えて、扉を押し開けた。

「兄貴! 新年、明けましておめでとうございやす!」
 カウンター席から甲高い声を八百甚の誠司が発すると、並んでいる面々がいっせいに振り返った。毎年、銀平が持ち込む魚を誰もが期待している。それは銀平も心得たもので、新年の初物から一等旨い魚を目利きする。
 今日の本鮪は、築地の初セリでは目を疑うほど高値が付けられた。それほど、大間産は去年の秋から品薄が続いている。

「おう、どちらさんも、めでてぇな! ささ、やりねえ、食いねえ」
 トロ箱を開ける銀平の正月らしい粋な江戸言葉に、今朝、帰京したばかりの右近龍二や平 仁兵衛が目尻をほころばせた。
 本鮪の身を前にして、あらためて年賀の盃を全員で上げると、純米酒の上燗のせいで、もう頬が紅い菱田祥一は
「こ、これ、すごく美味しそう! 脂がのって、光ってるよ」
とトロの塊を見るなり生唾を呑んだ。

「そりゃ、そうでぇ! なにせ、大間産の極上物だからよ……」
 自慢しながらもカウンターを見回す銀平に、太郎が笑った。
「あすかは、雪道でタクシーが遅れているみたいだ……正月早々、ひと悶着しねえですむじゃねえか。いりゃあ、水と油の仲なのに、気になるのかよ?」
「て、てやんでぇ! あいつに食わしておかなきゃ、後でしつこく愚痴られっからな」
 太郎の皮肉を否定する銀平だが、言い訳しながら上気する顔へ平と龍二が吹き出した。

 勘の鈍い誠司はそれぞれの表情を見比べていたが、はたと気づいて手を打った。
「あっ、そうだったんすね。兄貴、あすかさんに惚れてんすかぁ」
 途端に、銀平の右手が誠司のきれいに剃り上げた頭を張った。正月用の五厘刈りだけに、音の響きがいい。
「ば、ばっか野郎! 誰が、あんなお嬢ちゃまを好きになるかよ! いなせな江戸っ子にゃ似合わねえ、高飛車な女だぜ。だいたいよう、この雪で遅れるのは目に見えてんだから、早めに出かけてりゃいいんでぇ。酒にはうるせえくせに、肝心なことにゃ気の回らねぇ奴だぜ」
 銀平の上がり調子に太郎や龍二たちが飽きれる中、扉に目を止めた誠司の顔色が変わった。
「あ、兄貴、いけねぇ!」

 舌禍する銀平の口を誠司が手で塞ぎかけた時、鳴子の音とともに、あすかの声が響いた。
「あ~ら、気が回らなくって、ごめんなさいねぇ。イケメンを誘うのに、ちょっと時間が掛かっちゃったの。太郎さん、飛び入りでごめんなさい。こちらは深川消防団の金澤 光さん。去年の暮れに雑誌の新年記事で、出初式のハシゴ乗りについてインタヴューさせてもらったの。ハシゴ乗りの名手の金澤さんは、江戸の火消しだった加賀鳶の血を引いてるんです。それに、日本酒ツウなのよ」
 あすかが声高に紹介する男は、引き締まった体躯と身軽そうな足腰がジーンズのシルエットに表れていた。鼻筋の通った面差しは、三十代後半の人気俳優に似ている。

 惚れ惚れする金澤の逆三角形の上半身に太郎が目を丸めると、平と菱田、そして龍二が小声を交わした。
「銀平さんに、強敵現るですねぇ」
「築地の魚河岸と深川の火消し。粋と意地のぶつかり合いか」
「いや、顔と体系で、もう勝負はついてる気がしますね」
 そしる三人をギヌロとにらむ銀平の肩越しに、渋い響きの声が飛んで来た。
「初めまして、金澤です。厚かましくお邪魔しちまって、申し訳ございやせん。本来なら、今日はあすかさんに深川の出初式でハシゴ乗りを取材してもらうはずだったんですが、実は演技が急遽、取り止めになりやして……」

 金澤は肩でため息を吐くと、面目なさげに天井を見上げた。空を仰ぐようなしぐさに、平たちは加賀鳶の血筋を感じた。
 ふいに、口をへの字に結んでいたはずの銀平の声がした。
「いってえ、どうしたわけで止めちまったんだよ?」
 腕まくりをして真顔で訊ねる銀平に、築地魚河岸のいなせと粋が垣間見えた。

 視線を合わせた金澤は、お互いに発している江戸前の男気を感じ取ったのか、銀平の隣へ「失礼しやす」と腰を下ろした。
 銀平は挨拶を返す代わりに自分の盃を金澤へ手渡し、酌をした。
「お流れ、頂戴いたしやす」
「いいってことよ。さすがに加賀鳶、酒の道を分かってんじゃねえか」
 あすかは、揉めるのではないかと心配した二人の空気が杞憂に過ぎたことで、口を挟んだ。

 去年の深川の夏祭りで、ハシゴから落ちてケガをした若い鳶職がいた。彼は療養中だったが、年の瀬に容体が悪化し、晦日の朝に亡くなった。それで、新年の出初式にはハシゴ乗りを自粛するように消防署から通達があったと、気落ちしている金澤を代弁した。
 ポンバル太郎の新年会へ誘ったのも、例年の出初式で石川県の地酒を飲む習慣の金澤を慮ってのことだった。
「そうかい。じゃあ、俺から金澤さんへ、加賀の菊酒をごちそうするぜ」

 太郎が冷蔵ケースから石川県の純米吟醸を取り出すと、思惑通りになったあすかが小躍りした。酒の肴を世話焼きな平が物色すると、盃を飲み干した銀平が思い出したかのように金澤へ言った。
「そういやぁ、深川の出初式と納会には、昔っから築地の鮪を一本収めることになってるだろ……まあ、今年の初物は、いかんせん、小ぶりだがよう。てこたぁ、あんた今年は食えてねえわけだ」
 太郎から冷酒グラスに加賀の菊酒を受ける金澤は、口惜しげに唇を噛んだ。
「ええ、まだです。正月の鮪のトロは、江戸火消しには縁起かつぎな魚でして……ですから、スッキリしねえんです」
 憂い顔を見せる金澤に、平と龍二、菱田の三人が嬉々としてトロ箱の中の身を指さした。

 目をしばたたく金澤が、カウンター越しに覗き込んだ。
「あっ! 本鮪のトロですか!」
「あたぼうよ! 兄貴が目利きした火野屋の大トロは、日本一でぇ」
 誠司が威勢を上げると、あすかが
「えっ、出初式って、祝い鯛じゃないの?」
と続けた。

「確かに、新年の行事に真鯛は付き物ですねぇ。どうして、また鮪なんでしょう?」
 平の問いかけに、金澤は大トロに視線を取られながら答えた。
「江戸時代の火消しは、当初、侍が担っていて、中でも加賀・前田家の武士が勇猛だったそうです。だから、加賀鳶が名を馳せたてぇわけでさ。そん時ゃ、祝い鯛が用意されたにちげえねえ。その後、町火消が作られ、庶民が火消しを請け負って、いろはにほへとの火消し組に、貧しけど命知らずな荒くれ男が集まった。そいつらは臥煙(がえん)と呼ばれて、鮪を好んだ。何故かってえと、江戸時代のトロは捨てる部位だったんでさぁ」

 当時は廃棄物だったが、脂っこくて精がつくトロを食べれば、銭のない体力勝負の臥煙たちにとっては一石二鳥。そこで考え出されたのが、安い青ネギと一緒に、醤油、酒、味醂で煮る“ねぎま鍋”だと、金澤は銀平へ確かめるように視線を向けた。
 あすかが不安げな表情を浮かべると、平たち三人も、銀平の口元に目を止めた。

 不敵な笑いのようで、ほほ笑んでもいるように、銀平は答えた。
「俺の血筋は、日本橋魚河岸からの魚屋だ。その俺が言いてぇことを、全部、言っちまいやがって……その通りだ。だがよ、そんな小難しい話より、分かりやすいのは、鮪は“鉄火”って呼ばれるだろ。それを好んだ火消しも“鉄火肌”じゃねえか」
「なるほど、合点がいきます」と金澤は頷いた。こじつけのようだが一理あると、太郎や平たちも相槌を打った。

「兄貴、さすがっす!」
 ヨイショする誠司の前に、太郎が頬杖をついてニンマリした。
「じゃあ、鉄火肌な銀平の弟分である誠司君、今夜はネギマ鍋っと行きてぇところなんだが、鮪はあっても、あいにくネギがねえんだ……どうしたもんかな、なぁ、やっちゃばの鉄火肌」
「築地で、取ってこいですか……こ、この雪道の中をですかい?」
 誠司が銀平に助けを求めると、ひとっ走りしろと目顔で返された。
 それでも尻込みする誠司の背中を、シビレを切らしたあすかがバシッと叩いた。
「あんたも、鉄火場の築地の男でしょ! 転ばないように、雪を避ければ大丈夫。熱燗、一杯ひっかけて出りゃ、寒さなんて平気よ。江戸の火消しなら、雪が降ろうが、槍が降ろうが、すっ飛んで行ったんだよ」
 あすかのハッパにたまらず誠司が飛び出して行くと、唖然とする金澤に銀平が言った。
「ほらな、正月早々、おっかねえ女だろ。この店じゃ、あすかが一番の鉄火肌なんだよ」
 途端に爆笑が巻き起こり、赤面したあすかは銀平の頭を叩き始めた。