Vol.218 唐桟(とうざん)

ポンバル太郎 第二一八話

 本格的な梅雨入りに、神宮の森がしたたるような緑に映えている。散策路を歩く人たちは、湿った草いきれに夏の訪れを予感していた。
 気温は28℃と高めで、日暮れ時のスカイツリーの姿も篠つく雨に霞んでいる。

 ポンバル太郎の通りでは雨傘が行き交う中、飴色の番傘をさす着物姿の女性が目を引いた。雨のしぶきを上手に避けるような足運びと乱れぬ着物の裾に、居酒屋へ向かう男たちは濡れるのも忘れて見惚れた。何より目を引くのが、着物の灰色と紺色のゆかしい縞柄である。
 女の白くてふくよかな手がポンバル太郎の玄関を押し開くと、鳴子の軽やかな音とともに火野銀平の声が聞こえた。
「あっ! こりゃ、真知子さんじゃねえですかぃ。今夜はめっぽう江戸の女将てぇ雰囲気で、凛としてやすねぇ。その着物、え~と、何てぇ柄だったっけなぁ?」

 生貯蔵酒をワイングラスに3杯飲んだ銀平は、赤ら顔で呂律がもつれている。隣に座る八百甚の誠司にマチコの着物の柄を思い出せとばかり、食べようとしている鮎の塩焼きを取り上げた。
「いや、学のねえ俺に訊いたって、ダメっすよう! だけど、歌舞伎や寄席の緞帳に似た柄でやすねぇ」
 居酒屋マチコには馴染んでいない誠司は、気を使いながらも、つい本音を洩らした。
 カウンター席へ座った真知子がクスリと笑えば、厨房から出てきた太郎は呆れた顔でたしなめた。

「まったく、無粋な野郎どもだねぇ。江戸っ子が聞いてあきれるぜ。唐桟(とうざん)ってんだよ。時代劇で町の女房がよく着てる、紬で仕立てた着物だ」
 太郎の説明に、店の客の数人が「あっ、なるほどね」、「見覚えがあるよ」と頷いた。その声を追いかけるように、玄関で女性の声が重なった。
「唐桟は、そもそもは南蛮貿易で持ち込まれた縞柄の東南アジアの織物のことよ。その柄を真似した安い国産の紬織物が、江戸時代の半ばから普及したの」
「つまり、あたしの故郷の九州から唐桟は広まったばい。だから、色や柄も派手で、どこかエキゾティックたい」
 高野あすかと手越マリが一緒にカウンター席へ近寄ると、真知子は柳腰になって「お久しぶりですね」と三つ指突きの挨拶をした。その洗練されたふるまいに、テーブル席の客たちはため息を洩らした。

 唐桟の袖が美しく揺れると、カウンター席の隅から細くて高い男の声が聞こえた。
「その銀鼠と藍の縞は、妙齢の女性にふさわしい色柄ですね。有名なのは、尾西地方の尾州縞、西濃地方の美濃縞、武蔵国入間郡の川唐(かわとう)ですよ。それにしても、あなたの足運びや仕草、立ち居ふるまいはお召し物以上に、粋で美しい。芝居の参考になりますよ」
 褒めそやす男の顎は、うりざね顔のヤサ男で、ほの白くドウランの跡が首筋に残っていた。

「芝居って……あんた、役者かよ? にしちゃ、テレビじゃ見かけねえ顔だな」
 訝しげに男を見る銀平の横で、誠司も
「真知子さんは女性でやしょ? それが、どうして参考になるてんでぇ?」
と不審げに男へ訊ねた。

 細身のジーンズに花柄シャツの男は答えず、冷酒グラスを細い指で飲み干すとシナを作るようにほほ笑んだ。
「ゲゲッ、気持ち悪い奴。夏も近いってえのに、寒気がすらぁ」
と銀平が眉をしかめると、誠司もまばたきを忘れて、手にする純米酒の盃を宙に止めていた。
 だが、あすかと真知子は男の素性を読み取っていた。
「相変わらず、銀平さんって鈍いわねぇ……あなた、女形の役者さん、でしょ?」
「駅前のスーパー銭湯に来ている、時代劇芝居の役者さんね。ポスターに載っていたお化粧した女形の役者さんに、横顔が似ているわ」

 見抜いた二人に、今度は男がカウンターの上で三つ指突きの挨拶をした。
「お見それしました。図星でございますよ。私は、綾部雪之丞と申しまして、一座の若手女形を演じています……今夜は非番なので、気晴らしに、子どもの頃に一座で訪れたことのあるこの町をのんびり散歩して、美味しい日本酒と肴を頂こうって寸法でした。よけいな話をしちまって、ごめんなさいねぇ」
 雪之丞の言葉に、おだやかだった真知子の表情が一瞬動いた。どことなくクネクネした雪之丞の仕草に誠司は青ざめたが、マリは感心して、お銚子と盃を太郎に頼むと、雪之丞の隣へ席を移した。

「あんた、女以上に女っぽかね。あたしは歌舞伎座によう行くけん、女形も見とると。名立たる役者にも、あんた、引けを取らんばい。あんたも、真知子さんみたいな唐桟を着たら似合うたい」
 褒めそやすマリの前に立った太郎も頷きながら、雪之丞へ盃とぬる燗の純米酒を差し出した。しかし、雪之丞は盃を受け取らずに、ひと息呑み込んで言った。
「いや、唐桟の着こなしは女形だけじゃなく、男役にも大切なんですよ。玉虫色の派手な縦縞の柄は、江戸の伊達男の象徴でもあったんです。それを演じる力は、もっぱら女形の私にはありません……今となっては、亡くなった元・座長の親父からしっかり引き継いでおくべきだったと悔やみます」

 例えば、緑や赤、黄色と黒などを織り交ぜた派手な唐桟は、火消しの臥煙(がえん)や賭場の奴(やっこ)といった鉄火場の猛者に着こなされ、男芝居の主役的な存在。これを粋に演じるのも、旅芝居の役者には欠かせないと雪之丞は吐露した。
 熱く語る雪之丞に銀平の気分もほぐれてきたのか
「雪之丞さんよう、ちょいと自慢の演技を見せてくんねえか。江戸時代の深川にある居酒屋、そこの女将が客に、袂であっためた人肌燗を一献お注ぎしましょうって場面で、どうでぇ?」
とマリが制するのを無視して、空っぽのお銚子を手渡した。

「何を言ってやがる。役者さんは演じるのが商売なんだ。タダで見せろなんて、野暮の極みだろ! それなら、おめえが雪之丞さんの勘定を持ちな」
 太郎のお咎めの後には、あすかのビンタが銀平の禿頭に飛んで来るはずと、誠司は首をすくめた。ところが、あすかは真知子に耳打ちされて、玄関を出て行くところだった。
 揉める太郎と銀平の間にマリが割って入ると、雪之丞は音もなく立ち上がって店の真中へ歩んだ。そして、力を抜くようにダラリと両肩を落とすと、瞬く間に女の体形と姿勢に変身していた。

 雪之丞は15分ほど、居酒屋の女将を即興で演じた。その内に秘めたような気迫に、銀平と誠司はあんぐりとして、太郎だけでなく客席の全員が息を呑んでいた。
 静まり返る店内に、真知子が独りごちた。
「肩甲骨を後ろへ押し出すようにして、肩の力を抜くの。そうすると、本当に女らしい姿勢になるのよね……私、いかり肩でねぇ。そう教えられたの。居酒屋マチコへよく来てくれた、綾部玉治郎さんに」
 客席へ愁波を送っている雪之丞のしぐさが、ピタリと止まった。
「えっ! 親父をご存じなんですか? 親父はこの町へ巡業に来るたび、あなたのお店に通っていたのですか?」

 銀平と誠司が同じ動きで、雪之丞と真知子の顔を見比べた。
「そうなの。あなたとそっくりで、お芝居に熱心な方だったわ。トコトンまで稽古して、非番の日にはマチコにいらしてた。玉治郎さんは男役専門だったから、いつも女形に憧れてた。マチコで酔うと、いつか息子を一流の女形に育てると語っていた。そんなあなたが、今は男役に憧れてる……親子の血は、争えないわね」
 唖然としている雪之丞を、真知子と目で合図した太郎が「お疲れ様でした」と席にいざなって、ようやく盃を手渡した。

 その時、玄関の鳴子が響いて、四合瓶を手にしたあすかが現れた。
「お父様とはちがう女形らしさが、雪之丞さんの魅力でいいんじゃないですか。きっと、亡くなった玉治郎さんも、嬉しいはず。だから今夜は、玉治郎さんがマチコで飲んでいたお酒を一緒にどうぞ……って、これは真知子さんからね」
 あすかをマチコへ酒を取りに行かせたと判ったマリは
「真知子しゃん! ステキたい! あんた、本物の江戸の女将たい!」
と力いっぱいハグした。
 店内に拍手が響くと、真知子が紅潮している雪之丞の盃に酒を注いだ。受ける彼のしぐさは、あたかも芸妓のようにたおやかで、美しかった。
「おう、誠司! 明日にでも、仕事帰りに駅前のスーパー銭湯へ繰り出すかぁ!」
 銀平が肩で小突くと、誠司も相槌を打った。
「そうっすねぇ! それにしても、雪之丞さんはあんなに女っぽいけど、マリさんは絶対に男役しかできねえっすね。時代劇で唐桟を着たら、まちがいなく任侠の親分に見えますぜ」
「何だってぇ! もういっぺん、いってみんしゃい!」
 地獄耳のマリが、鬼瓦のような顔つきに変わった。
 客席に、芝居小屋のような爆笑が巻き起こった。