Vol.227 賀茂ナス

ポンバル太郎 第二二七話

 隅田川の花火大会が終わっても、水面を遡ってくる潮の濃い匂いは初秋の遠さを感じさせている。黄昏に染まる代々木公園は、うるさいほどのツクツクボウシに占拠されていた。
 じっとりする蒸し暑さに駅のホームに並ぶ人たちは、しとどな額の汗を拭っていた。
 ポンバル太郎の通りでは、そこかしこの居酒屋が“キュウリの一本漬け”や“冷やしフルーツトマト”のメニューを店先に貼り出している。

「夏野菜もそろそろ終わりだな。今夜はヘルシー志向で、いってみるか」
 独りごちる右近龍二が、喉を鳴らしてポンバル太郎の鳴子を揺らせた。丸一日の外回り営業で、水分は不足している。それが証拠に、地ビールらしき匂いを渇いた鼻腔が嗅ぎ当てた。
「おっ! そのビール瓶、見たことありますよ。確か、京都の地ビールじゃないかな……北山に沸く軟水で仕込むペールエールでしょ?」
 声を投げられたカウンター席の平 仁兵衛と火野銀平が、小瓶のクラフトビールを口にしている。その隣で、ジャーナリストのジョージはすでに2本目を空けていた。

 だが、ジョージの色白な鼻筋が赤く火照っているのは、ビールのせいではない。
 北山の地ビールだけでなく、伏見のひやおろしも持参した祇園“若狭”の女将である仁科美枝が、なぜかカウンターの中に立っていた。
 龍二はカウンター席に座ったが、太郎の姿が見当たらない。
「お久しぶりどすなぁ、龍二さん。今晩は、あてがポンバル太郎の一日女将どす。どうぞ、よろしゅうに」
 美枝の艶っぽい京言葉に、龍二の後からやって来た馴染み客たちが唖然とすると、ジョージは「アテンション プリーズ!」と発して、【本日は、祇園の女将が店主です! 皆さま、お楽しみに! ちなみに、太郎は出張中】の壁紙を指さした。

 美枝は客席に向かって芸妓っぽい三つ指突きのお辞儀をすると、この一週間、祇園の若狭が改装工事で臨時休業していることを伝えた。そして、その休みを利用して、大阪の割烹 中之島とポンバル太郎で一日女将をさせて頂き、改めて酒と料理を勉強しているとはにかんだ。
 涼しげな縹色の着物が、美枝の微香とほころんだ目尻を引き立てた。店内で拍手が起こる中、平と銀平は惚れ惚れとして美枝を見つめている。

 美枝がグラスに注いだクラフトビールをひと息で飲んだ龍二は、疲れた表情を生き返らせた。
「ところで、太郎さんはどこへ出かけてるんですか?」
「そうどうすなぁ。今頃は祇園で、あすかさんとお食事してはりますやろ」
 ブハッ! とビールを吹き出して、龍二がむせかえった。平は背中をさすりながら
「二人とも、偶然にお仕事で行ってるそうです。私たちが想像するような、意味深な旅行じゃないようですねぇ」
と小声で耳打ちをした。向こう隣に座る銀平が不機嫌そうなわけを、龍二は察した。

「まったくよう! 太郎さんはこのジョージの口車に乗せられて、京野菜のセミナーだとよ。店をおっぽらかしてまで、京都へ行く値打ちがあるのかよ。美枝さんには悪いがよう、京野菜てなぁ、ちょいと御高く留まってねえですかい?」
 愚痴る銀平だが、その視線は美枝でなく、太郎を誘ったジョージを睨んでいる。
「オウ! でも、あすかさんは伏見の蔵元取材で京都へ行ってます。太郎さんとは、別行動でしょ」
 銀平が内心ではあすかを気に入っていることを、2年以上、ポンバル太郎へ通うジョージも見抜いている。そして、あすかは太郎に惚れていることもである。
「そんなこたぁ、どうだっていい! 余計な忖度をするんじゃねえよ!」
 言葉とは裏腹に耳まで赤くする銀平が、図星だと答えていた。

「まぁまぁ、そないにカッカしやはったら、頭も体もカラカラになりますえ。伏見の冷酒とおばんざいでも食べはって、落ち着きよし」
 はんなりとした美枝の声掛けに、緊張していた場の空気がゆるんだ。カウンターの上には、美枝が手作りした大皿料理と伏見の純米吟醸が並んでいる。おばんざいは客たちに好評で、伏見の酒も追加注文されていた。
 目移りしている龍二に、平が大きな賀茂ナスの味噌田楽を勧めた。今夜の平は、自作の大皿を使ってくれた美枝にすこぶる機嫌が良い。それも、銀平は気に食わないようだった。

「こんなにでっけぇナスビ、火が通りにくいんじゃねえの?」
 酔ってイチャモンをつけ始めた銀平に、テーブル席の女性たちが眉をしかめた。
「よしなよ、銀平さん」と龍二が諫めても、太郎がいないだけに、なかなか治まらない。平もため息を吐いて苦笑いを浮かべたが、肝心の美枝は動じなかった。
「ほんなら、銀平はん。この賀茂ナス、いっぺん食べてみはったら、どうどす? 食べもせんと料理を腐すのは、野暮どっせ」
 野暮や無粋とケナされるのが一番癇に障る銀平に、美枝が敢えて言ったように平は思えた。銀平の顔は、みるみる上気した。
「こいつが、本場の賀茂ナスですかい……俺ぁ、築地のやっちゃばで目にしてるが、ヘンテコリンなナスビにしか見えねんでさ。ナスビってな、やっぱりシュッと反り上がってるのが江戸っ子らしいじゃねえですかい」

 すると、テーブル席の女性客が「古臭い~」と囁いて銀平の機嫌を損ねた。「あちゃ~」と漏らす龍二の鼓膜を、銀平の怒鳴り声が震わせた。
「な、何だとぅ~! もう一度、言ってみな!」
 もはやこれまでと、平の手のひらが銀平の口を塞ぎかけた。その時、美枝が生のままの賀茂ナスを銀平の口に突っ込んだ。
「ガッ! グウ!」と声を漏らした銀平を龍二と平が椅子に落ち着かせると、美枝が腹の据わった低い声で「ええかげんに、しなはれ」と叱りつけ、酔いを醒ませろとばかり仕込み水をグラスにたっぷりと差し出した。
 賀茂ナスを外しても鼻息の洗い銀平に、美枝は訥々と語った。

「今日、太郎さんへ京野菜のセミナーへ行ってもらうように仕掛けた張本人は、あてどす。ジョージさんには、セミナーのPR記事を書いてもらいました。理由は、あての馴染みの賀茂ナス農家が高齢で畑を止めることになって、その畑や作物を引き継いでくれる若い人を育てるために、東京を始め、全国の有志を募ろうとしてます。太郎さんには、そのPRリーダーを東京でお願いしたいんどす。関西は、中之島はんにお願いしてますねん」
 そして、ポンバル太郎のお客様、銀平や誠司といった業界の人たち、あすかやジョージのようなジャーナリストに、有志の輪を広げてもらいたいと美枝は打ち明けた。その農家は十代続く家柄で、このまま途絶えるのは忍びないのだと、賀茂ナスを皿によそいながら言った。

 シンと静まる店内で、先に賀茂ナスの田楽に箸をつけていた女性客が賛同するかのように頷いた。
「上等な賀茂ナスって、実が締まっててさ。煮炊きしても崩れないから、うちはトマトと一緒にイタリアンにも使うのよ」
「あるある! だって“ナスの女王”って呼ばれてるんでしょ? 私、その有志に参加しちゃおうかなぁ。しょっちゅう、京都に行けるし!」
 途端に、それを耳にしたジョージがテーブル席へ駆け寄り
「あなたたち、ファンタスティックですね! ぜひ、賀茂ナス農家のPRにご協力をお願いします!」
と名刺を渡し、スマホで三人の記念写真を撮り合った。それに耳を傾けながら酔いを醒ます銀平は、目の前に置かれた賀茂ナスの味噌田楽を口に運んだ。今しがたまでの暴言や無礼を恥じているのか、真剣なまなざしで味を利いていた。

「こいつぁ、実が詰まってるから、油で揚げてもいいんじゃねえかな。京料理はサバが有名だから、俺が納めた脂ののったサバとフライにすりゃ、どうです。山廃純米酒に、バッチリでやしょう」
「そうどすか! さすがは、魚河岸のご主人どすなぁ。ほなら、さっそく作りますえ」
 的を得た銀平の答えに、美枝が満面の笑みを浮かべた。平と龍二も、美枝の気持ちを汲んだ銀平に胸を撫でおろした。
「いやぁ、面目ねぇ。つい、カッとしちまって……オネエさん方、許してくんねえ」
 肉厚な賀茂ナスを噛む銀平が、テーブル席へ深く禿頭を下げた。二人の女性は銀平が築地の魚卸だと知るや、カウンターに近寄った。今しがたの癇癪も、魚河岸の男なら仕方ないと納得したようだった。

「あの、一緒にインスタの写真をお願いしても良いですか。できれば、そのTシャツの“築地魚河岸 火野屋”のロゴをちゃんと見せてもらって、撮りたいんですけど」
「お、俺とかよ!? マジで? イイですよう!」
 真っ赤な顔で態度を豹変させる銀平に、龍二が「変わり身、はやっ!」と笑えば、冷酒グラスを口にするジョージは
「もう、あすかさんは、どうでもいいんでしょうか?」
と呆れ顔でつぶやき、賀茂ナスを口に入れた。

 その時、玄関の鳴子が響いて、両手に京野菜の袋をいっぱい提げる太郎が現れた。思いがけない登場に客席がざわめくと、カウンターに座る面々はポカンとした顔で賀茂ナスをつまんだ箸を止めていた。
「えっ! もう、帰って来はりましたんか? あすかさんとは、一緒やないのん?」
 迂闊にも口を滑らせた美枝に平が咳払いをしたが、若い女子に挟まれて有頂天の銀平は気づいていない。
「ああ、店のことが気になってさ。俺は、貧乏性でいけねえや。けど、美枝さんのお陰で、京野菜のセミナーも土産の野菜もたっぷりと頂きましたよ。賀茂ナスを選ぶコツも、教えてもらいやした。ヘタが3つに分かれて、きっちり三角形になった“三ヘタ”てえのが一級品だそうですよ」
 満足げな太郎の口ぶりに、龍二と平が顔を見合わせた。
「あ~あ、相変わらず、色気よりも仕事っすねぇ」
「三ヘタですか……そう言えば、太郎さんもあすかさんも、そして銀平さんも、三人とも仕事好きで、恋はヘタですねぇ」
 平の声へ返事するかのように、丸々とした賀茂ナスがゴロンと転がった。