Vol.73 長崎チロリ

ポンバル太郎 第七三話

 帰省のユーターン客でごった返した東京駅に、スーツ族の雑踏が戻った週明けの月曜日。京都五山の送り火の写真葉書が、大阪の中之島哲男からポンバル太郎に届いた。カウンター席では、ひやおろし純米にほんのりと赤くなった高野あすかが、「大文字」や「船形」の篝火に見惚れている。
「いいなぁ。私、京都にしばらく行ってないし、祇園祭も送り火も生で見たことがないの。誰か連れてってくれないかなぁ」

 あすかは厨房の中へ聞こえよがしに独りごちたが、太郎はカウンター端の客が注文した肴の支度に余念がない。その新顔の中年男が選んだ本日のおすすめメニューに、あすかは再度、視線を落とした。
初めて見る“くちぞこ料理 いろいろ”をあすかは後で太郎へ訊ね、長話しをする口実にしようと思っていた。だが「へぇ、“くっぞこ”ね」と洩らした男に、常連客の手越マリに似た九州っぽいアクセントを感じた。

 浅黒くて眉の濃い男にあすかが声をかけようとした時、太郎の手が湯気の立つ皿を運んだ。
「くちぞこの煮つけ、お待たせしました」

 舌平目にそっくりな平べったい魚が、濃い醤油の香りと色合いを映している。
「うむ! この風味、有明の醤油たい。それに……赤酒の香りもしとると。おおっ、そこの棚に赤酒があるばい。マスターは、有明の味付けをよくご存じやねぇ。あっ、失礼! 私は長崎の有明町出身で、松浦という者です」

 男は興奮気味にまくしたて、くちぞこの身を口に放り込むと「おおう! こりゃ、うまか!」と感嘆の声をまた上げた。

 人見知りしない男の開けっぴろげな人柄に、テーブル席の客たちが笑い声を洩らした。東北育ちのあすかには、どことなく羨ましくもあった。
「くちぞこは、有明海で獲れるシタビラメの一種ですね。この煮付けの作り方は、ある女性に教えてもらいました。特に赤酒に甘味があるので、砂糖は使わないと聞いて、感心しました。それに赤酒はアルカリ性が高いですから、煮物に使うと素材がふっくらと仕上がります。実は、その方がもうすぐやって来ますよ」

 太郎が赤酒の四合瓶を棚から取り出した時、玄関の鳴子が音を立てた。
「う~む、よか匂いばい」と、手越マリの声が飛んで来るだろうと踏んでいたあすかの耳に、意外なフレーズが聞こえた。
「あら、ええ匂いどすなぁ。あての伝えた通り、上手なくちぞこの煮つけができてるやおへんか」

 おもねるようなまったり声は、祇園の料理屋『若狭』の女将・仁科美江のものだった。変わらぬ上品な人となり、微香をまとった和装の見立てに、いつものあすかなら緊張も露わだが、予想だにしない登場に口元は半開きになっている。

 はっとして我に戻ったあすかは、中之島からの手紙がこの予告だったかと気づいた。
「京都の女性が、このくっぞこを? これはまた、不思議たい」

 赤酒を太郎から受け取ってグラスに注ぎかけた松浦が、不審げな表情に変わった。
松浦の言葉尻に、美江はどこか悟ったような笑みを覗かせ、あすかの隣に腰を降ろした。そして、きなり色の久留米絣の膝元に、横長い箱を包んだ茶渋染めの風呂敷を置いた。
「それは、そうどっしゃろなぁ。京都と長崎は、日本の半分ほども離れておすし、お醤油もまったくちがいます。京都は御公家の町やから、薄味でたんぱくどす。おたくはんの九州は昔から南蛮や琉球のお砂糖が入って、甘うて濃いお醤油を使わはります。けど、そんな味付けも京都には届いてました。坂本龍馬や薩摩、長州のお侍さんが、京都のおなごに教えたそうどっせ」

 それだけでなく、例えば、洋菓子のカステラも明治維新に彼らが舞妓や遊妓への土産に持ち込んだのだと美江は語った。
テーブル席の客たちと聴き入っていたあすかが
「そう言えば……海援隊になる前の亀山社中の面々は、最初はカステラを焼いて資金稼ぎをしていた」
「さすが、ライターさんやねぇ。ほなら、あすかはんは、これを御存じやろか」

 驚く松浦の箸はずっと止まっていたが、美江が風呂敷をほどいた途端、箱の銘を見るなりカウンターへ落とした。その乾いた音に、テーブル席の客たちも中腰になってカウンターに注目した。

 箱の中から、あたかもアラビアンナイトに登場しそうなランプのような、瑠璃色のガラス器が現れた。光の浴び方によって群青色や澄んだブルーを綯い交ぜにする美しいガラス器に、あすかは声を失っていた。テーブルの客たちも無言で、視線は釘づけになった。
「みごとな、長崎ちろり。しかも年代物やなかですか。こげん深か青さの逸品を京都の人が持っとるとは……」
「これも、幕末にあての御先祖さんが長崎の商人から手に入れた物どすが、昨今は御座敷に飾ることもおへん。これからは東京の人……つまり、太郎さんが持ち主にならはる。あてが京都で後生大事にしもうとくよりも、若いお客さんがぎょうさんいてる東京で使うてこそ、価値がありまっしゃろ。けど、そのためには、ほんまもんの長崎の味とお酒がいります」

 それゆえの、本日のおすすめメニューだった。妙齢の芸妓のようにしなを作る白髪の美江に、あすかは脱帽した。
京都の御茶屋の女将を、現役を離れた高齢者などとあなどってはいけない。彼女たちは芸事の師匠でありながら、一流の文化人でもあると教えた中之島哲男の声が耳奥に聞こえた。
客たちが美江の横顔を見つめている間に、太郎は長崎ちろりを受け取って赤酒を入れた。 

瑠璃色の器が艶やかな赤紫色に変わって、松浦を喜ばせた。
「これぞ、長崎チロリの七変化たい」
 瑠璃色のチロリが傾いて、細長い注ぎ口を赤紫色に変えていく。そこをすべり出た酒は、グラスを褐色に染めた。
店内に洩れるため息の中で、太郎がつぶやいた。
「美江さん。できれば長崎の都都逸、お願いできませんか」
「よろしおっせぇ。けど、高うおまっせぇ」
 美江の返事に、あすかと松浦、店内の客たちから拍手が起こった。
「できれば……この長崎チロリの御代といっしょに、出世払いで頼みます」
 美江はほほ笑んで姿勢を正すと、聞こえないふりをして、スウッと息を吸い込んだ。
みごとな声音の端唄が、青く透明な長崎チロリの肌にしみていた。