Vol.91 イカ徳利

ポンバル太郎 第九一話

 年の瀬のあわただしさを煽るように、吹雪が夕刻の都内を覆った。スカイツリーや東京タワーを隠すほどの勢いで、ポンバル太郎の通りもまたたく間に白く染まっている。

 コートの襟を立て、足元を滑らせる男たちを横目にする高野あすかは、スノーブーツにダウンジャケットといった万全の防寒体制だった。その右手には、新千歳空港とプリントした土産袋を提げている。
「よかった。北海道の出張スタイルが大雪にバッチリ! ついてるなぁ」

 あすかが肩口に積もった雪を払い落としながらポンバル太郎の玄関を開けると、ぬくもった風がまつ毛に付いている雪粒を解かした。
「やあ、あすかさん。おかえりなさい! 待ってました!」

 カウンター席に座る雑誌記者のジョージが、赤い顔で冷酒グラスを掲げた。店を手伝っている剣も物欲しげな顔で手招きしている。

 約束の6時にはまだ10分早いが、ジョージはすでにほろ酔いである。
「あんたたちが待ってるのは、私よりもこれでしょ?」

 カウンターに置いた紙袋から現れたのは、函館名物のイカ徳利だった。あすかは常連客の人数分を買ったらしく、十個ほど並んだイカ徳利にテーブル席の客からも声が上がった。

 初めて見るイカ徳利にジョージは目を白黒させたが、袋から取り出すと顔をしかめた。刺身は食べるジョージだが、磯臭い干物は苦手のようだった。
「日本ツウのジョージも、干物には慣れてねえみたいだな。イカ徳利はワタを抜いたスルメイカの胴体を風船で膨らまし、そのまま干物にして徳利の形に仕上げているんだ。昔から北海道や東北の海沿いで作られている名物だよ」

 カウンター越しに手を伸ばす太郎の解説に頷くあすかは、イカ徳利を袋から取り出すと、ジョージの前に置かれた四合瓶の純米酒を注いだ。
「しばらく置いておくとイカの匂いがお酒に移って、たまらなく美味しいの。でもジョージはこの臭いが嫌いだからダメかも、残念ねぇ」

 あすかがジョージの鼻先へこれ見よがしにイカ徳利をかざした時、二人の間に太い腕がにゅっと伸びた。
「お嬢ちゃん。こいつぁ、函館のイカ徳利だろ?」

 しゃがれた声に振り向くと、初めて見る大柄な白髪の老人が立っていた。その後ろで火野銀平が目尻をゆるめて笑っている。
「えっ、ええ、そうです。今朝、函館の市場で買ったばかりですよ」

 老人の芋のように太い指も、あすかの目を奪った。それに気づいた銀平が言った。
「この親爺さん、芝 六輔さんってんだ。若い時分はトラック野郎でよ、全国の鮮魚を築地まで運んでたんだ。今は築地のリフト係だが、その腕と指の太さはハンドル握って四十五年ってわけだ。おまけに、酒の肴にもうるせえんだよ」
「おい、銀平! 俺は口うるせえんじゃねえ。良かれと思って、教えてんだ。年寄りの見聞は、聞いといて損はねえ」

 六輔の苦言に、銀平はゲンナリした赤ら顔である。どうやら説教を聞かされながら、よその店で飲んでいたらしい。
「はいはい、分かりやした。じゃあ、俺たちもイカ徳利のご相伴に与ってもいいかなぁ、
あすかお嬢様」
「ええ、ご遠慮なく。お二人でシッポリどうぞ」

 あすかは口うるさげな六輔を銀平に任せようと、二つのイカ徳利を取り出して四合瓶の純米酒を注ごうとした。すると、さっそく六輔が注文をつけた。
「おい、ちょいと待て。そりゃあ、いけねえ。イカ徳利は、ぬる燗か上燗でなきゃダメだ。せっかく干したイカの風味を生かさなきゃ、うまくねえ。あったけえ酒がスルメに染みると、旨味が酒に出てくんだよ。おう、そこの外人さんはイカ徳利の臭いが苦手みてえだが、日本酒好きなら燗酒でやってみな。酒の香りで臭いが落ち着くから、きっと大丈夫だぜ」

 六輔はせっかちな性格らしく、あすかから瓶を取り上げると太郎に燗酒をせかした。

 太郎が銀平に笑って、「どこかで逢ったような……亡くなったお前の親父さんみてえだな」とつぶやいた。一瞬、六郎の横顔を懐かしむ銀平にあすかが目を止めた。

 錫のチロリで温めた酒を太郎がイカ徳利に注ぐと、3分待てと六輔はジョージとあすかに釘を刺した。そのようすを、テーブル席の客たちも興味津々で見つめていた。

 渋い金色の腕時計を見つめる六輔に、客たちも黙り込んだ。
「よし、いいだろ。それでよ、まずは一本目を飲み干したら、イカ徳利の底を切るんだ。そのまま、イカ盃にして使うんだよ。切った残りの徳利の上半分は、肴にする。燗酒がしみていい味になってるからよ、それを軽く炙って裂いてみろ。最高にうまいツマミだぜ!」

 恐る恐る六輔の奨めるままに燗した純米酒を飲んだジョージが、感嘆の声を上げた。
「わお! うまい! 臭くない! これ、美味しいです!」

 立て続けに飲み、空いたイカ徳利をツマミにするジョージにテーブル席の客たちは生唾を呑み込んだ。酒とスルメの混じった匂いに、あすかが鼻をすすって言った。
「これを炙ってツマミにするなんて、イカ徳利を食べ慣れた人の裏ワザね。六輔さんは、そんなに北海道へ行ってらしたの?」
「いや、俺がこの飲み方を覚えたのは佐渡ヶ島だ。日本海の佐渡ヶ島にも、イカ徳利があってな。真冬の佐渡に閉じ込められちまったおかげで、いい飲み方を教わったんだ。こいつの親父と一緒によ」

 六輔はぬくもって柔らかくなったイカ徳利を銀平に差し出しながら、遠い目をして話しを続けた。

 四十年前、まだ日本海の鮮魚が築地に品薄だった頃、六郎は銀平の父親・金太郎と佐渡直送の魚介類を手に入れるため、島の漁師をくどきに通った。
「佐渡ヶ島ってのは、“行きはよいよい、帰りは恐い”でよ。トラックが乗る佐渡行きのフェリーは新潟港から出発するんだが、いったん猛吹雪で海がシケちまうと、ひでえ時は帰りの船が五日も出ねえ。おまけに荒れた海で漁はできねえから、食う魚が島にはねえ。だからイカ徳利をしゃぶって、酒を飲んで、晴れるまで過ごすんだ。島の人たちにゃ、昔っからの保存食だよ」

 六輔の含蓄を耳にしながら、ジョージは酔眼をしばたたいて記事にしようとメモを取っている。あすかは太郎が炙ってくれたイカ徳利を割こうとしたが、空きっ腹に酔いが回ったせいで力が入らない。
 苦笑する六輔が、あすかのイカ徳利を太い指で割いてやった。
 うまそうな匂いがカウンター席にただようと、銀平がつぶやいた。
「冬が来ると、親父はイカ徳利で佐渡の燗酒を飲んでたよ」
 銀平がイカ盃を飲み干すと、太郎は頬を赤らめている六輔を見つめながら燗酒を注いだ。
「お前の親父さん。今夜みたいな吹雪の佐渡を思い出してたんだろな。頑張ってた若い頃をよ」
「ああ……今夜は久しぶりに、親父と飲んでるみてえだ」
 銀平の瞳に映る六輔の姿が、少しだけ、にじんでいた。