豪雪続きの東北自動車道に昨日から物流の遅れが生じていると、夕刊が伝えていた。
「今年はエルニーニョの影響で、暖冬じゃなかったのかよ」
紙面を渋い顔で見つめる太郎にも、先週末に火野屋へ注文した三陸産のあんこうや男鹿半島沖のハタハタが届いていない。
むろん、この暴風雪じゃ海がシケて漁にも出られないだろうと察していた。
「すまねえ、太郎さん。九州や四国の地物も俺の仕入れが後手に回っちまって……面目ねえ。明日の納品は冷凍物から選りすぐったのを用意するから、勘弁してくんねえか」
風邪で昨日一日臥せっていた銀平の詫びが、ため息を吐く太郎のスマートフォンから洩れている。
「まあ、いいさ。神様が正月から殺生ばっかするんじゃねえって言ってるんだと思えば、辛抱もできるってもんだ」
耳をそばだてる右近龍二も、純米吟醸のグラスを傾けながらあきらめ顔でつぶやいた。
「築地じゃ、火野屋だけじゃないでしょうね。天然物の魚介類にこだわってる料理屋には、厄介な天気だな」
龍二が一瞥した杉の壁板はオススメの品書きも少なく、定番メニューの刺身にも売り切れの赤札がいくつかあった。そのせいか、テーブル席の客たちは、どこも小鍋をつついている。
その湯気の向こうで、玄関の扉が静かに開いた。
太郎の視線の先に、新春らしい鶴の友禅をまとった妙齢の女性がほほ笑んでいた。匂い立つような居ずまいの真知子と、その後ろで、厚手のダウンジャケットを着た若い男が毛糸の正ちゃん帽をかぶっていた。男の頬は子どものように赤く、垢抜けしない雰囲気だった。
久しぶりに来店した真知子へ、太郎も龍二も食材の不足を忘れ、新春から縁起がいいとばかりに頬をゆるめた。
「明けまして、おめでとうございます。御年賀のご挨拶が遅れて、ごめんなさいね。お正月明けから一昨日まで、長野県の蔵元さんをいくつか訪ねていたので……これ、お土産です」
真知子が差し出したのは、何の変哲もないビニール袋。しかし、受け取った太郎は中を覗くなり「こいつぁ、ツイてるなぁ!」と喜色満面の表情で龍二に見せた。
袋からもれる冷気に、龍二も目を見開いた。
「わ、ワカサギだ。それも、デカい! これ、ひょっとして釣りたてですか」
つまんだ龍二の指先に、15㎝はありそうな細身の魚が凍っていた。霜をとかす鱗の輝きが、活きのよさを伝えている。
「でも、ワカサギは足が早ぇので、本当はその日のうちに食べるのが諏訪の流儀なんです。
真知子さんからどうしてもって頼まれてぇ、ちょっと変わったワカサギ料理をお教えしようと思います」
男がおっとりした訛り言葉で話すと、真知子は目を細めながら太郎に紹介した。
「昨日泊まった諏訪にある老舗旅館の五代目・神守さんです。東京の旅行会社へ年始のご挨拶に行くところを、無理にお願いしたんです。彼は、ワカサギ釣りの達人なの」
はにかむ神守の耳たぶが、見る間に赤くなった。
「助かります。この天気で地物のネタが入らなくってね。どうぞ厨房を使ってください、神守さん」
真知子の意を得た太郎がすんなり声をかけると、テーブル席の客たちは何事かと、首を伸ばして厨房を覗き込んだ。
神守はボールに張った水でワカサギを洗いながら、問わず語った。
「ワカサギのワカは新鮮ってことで、サギは細いって意味。山国の諏訪には、昔、海の魚介類はほとんど入らなかった。だから、諏訪湖のワカサギは冬の貴重なタンパク源でした。でも神様の宿る湖ですから、勝手に漁をしてはならなかった。だから、ワカサギもふんだんに食べられなかったのですよ」
そこで、漁民は干物にしたり味噌漬けにしたりと、日持ちのしないワカサギを大切に保存した。それは平安朝の帝へ、諏訪の酒とともに献上されていたと言った。
「へぇ、フライや天麩羅用の冷凍パックは見慣れてますけど、そう聞くと、ワカサギがとても貴重に思えてきますね」
答える龍二に、太郎も同感だった。指先でワカサギのわたを取る神守の名字に、太郎はどことなく神々しさを感じながら訊いた。
「旅館の旦那さんにしては、手際がいいですね。神守さんは、厨房にも立つんですか?」
「ええ、父を十五歳で失くしたので、高校を出るとすぐに家に入り、女将の母を手伝いました。老舗とは名ばかりのもっぱら田舎料理を出す温泉宿ですから、都会から板前を呼ぶほどじゃありません」
謙遜する神守だったが、真知子はそんな彼だから太郎に紹介したかったと言った。
「神守さんに作ってもらうのは、ワカサギの柳川鍋なの。諏訪の濃い味噌と生みたての地卵でとじると、ワカサギの白身がとっても美味しくなるのよ。この料理は神守さんが考え出したんだけど、とっても深いわけがあるの」
神守の家系は諏訪神社が先祖で、諏訪湖の恵みを守り続け、それが家訓にもなっている。霊験あらたかな神守家のワカサギの一夜干しは、病気を治す湯治客が食べる習慣もあった。代々の当主は客に用意するだけのワカサギしか獲らず、自分たちは決して口にしなかった。
早逝した神守の父は風邪をこじらせ肺炎を患っても食べるのを拒んだと、真知子は披瀝した。
神守は照れくさいのか
「あの時、柳川鍋を親父に食わせてたらと悔やんでます」
と笑いながら、素焼きの七輪を棚から取り出した。
耳を傾けていた太郎が動きを察し、竈に炭火を熾した。
小鍋に敷かれたワカサギの上につゆが注がれて、ゴボウとネギが置かれた。ふつふつと煮えていく小鍋に神守のといた卵がすべり落ちた時、玄関で鳴子が大きな音を響かせた。
「太郎さん、すまなかった。風邪の具合は良くなったんだが、どうにも力が出なくてよ。ちょいと精のつく物を食わしてくんねえかなぁ」
疲れた顔で現れた銀平はカウンター席にもたれかかるやいなや、真知子の姿に目をしばたたいた。
「こりゃあ、真知子さん。お久しぶりで! へえ、柳川かぁ。いいねぇ」
できたての柳川に舌なめずりする銀平は、年賀の挨拶も忘れて真知子の隣に座り込んだ。
神守はその場の雰囲気のままに「どうぞ」と小鍋をすすめたが、銀平は誰なのかも気にしていない。いつにないほど、食い気に走っているようだった。
「まったく、ゲンキンな野郎だぜ。今年も、悪運だけは強そうだな」
「ですねぇ。諏訪湖の神様も呆れてるんじゃないですかね」

太郎と龍二の皮肉に、神守と真知子が苦笑いした。しかし、食欲が抑えられない銀平は素知らぬ顔で割り箸を手にした。
がっついた銀平が、小首をかしげた。
「龍二、その諏訪湖ってなぁ、なんだよ? あれ、こりゃドジョウの柳川じゃねえな……シラサギかよ? これじゃ、元気出ねえよ」
途端に太郎が長いため息を吐いて、ガックリと肩を落とした。
「しかたねえか……おめえは、神々しさとは無縁だからなぁ。頭だけは、光ってるけどよ」
「太郎さん、そいつぁ余計なお世話だよ!」
ほど良く血の気を帯びてきた銀平の表情に、真知子と神守は笑みを浮かべた。
いつもの銀平らしさが覗くと、龍二が真知子につぶやいた。
「神守さんのワカサギ、やっぱり効くんですかね」
柳川鍋から立ち昇る湯気が、銀平と太郎のやりとりを優しく包んでいた。