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石川酒造株式会社

多摩の自然、徳川時代の名残に、エキゾティックな空気が交錯する町・福生

多摩の自然、徳川時代の名残に、エキゾティックな空気が交錯する町・福生

砕け散る怒涛を前にして思わず口づさむのは、“風雪流れ旅”か、はたまた“越冬つばめ”のヒュールリー、ヒュールリの一節か。
ここは日本海、石川県小松市の海岸。遥かな水平線からは、鉛色のうねりが絶え間なく押し寄せて来ます。
「おおっ!これぞ初冬の日本海」とばかりに小躍りする取材スタッフ。背後では、歌舞伎の勧進帳(かんじんちょう)で知られる“安宅の関(あたかのせき)”跡が広がり、わななく海風が、源義経、武蔵坊弁慶、関守の富樫泰家(とがしやすいえ)の銅像に吹きつけています。
この安宅の関にまつわるエピソードとは………源平壇ノ浦の合戦で大功をなした源義経は、征夷大将軍である兄・頼朝に「自らを脅かす敵」として追われ、奥州平泉の藤原氏のもとへ落ちのびようとします。頼朝はこれを捕えるため各地に関所を設け、安宅の関に富樫泰家を置きます。
文治3年(1187)春先、山伏に変装した義経弁慶の一行12人が安宅の関にさしかかりました。その姿を富樫に疑われますが、弁慶は「東大寺復興勧進のために諸国を廻る僧である」と、白紙の勧進帳(寄附帳)をあたかも書き染めているかのように読み上げます。さらに荷役人足姿の義経に富樫の目が止まり、「そいつは、義経公に似ている」と咎められるや、疑念をはらうため金剛杖で義経を打ち据えます。

義経と確信する富樫でしたが、弁慶の忠誠心に心を打たれ、主従の通行を許します。その後、安宅村の勝楽寺にて一行は休憩、この時、弁慶は両手をついて主人・義経に土下座をしました。
義経は、弁慶の機転によって無事関所を通過できたと誉め、礼を述べたそうです。………当時の面影を残す松林の下には、“弁慶の智”、“富樫の仁”、“義経の勇気”を讃えた碑が置かれています。

春の桜堤
多摩川
小河内ダム
玉川上水

さて、福生を含む武蔵野地域が歴史の表に現れるのは、平安から鎌倉の時代にかけてのことです。平安時代には、京都の公家たちに荘園として領されていましたが、承平6年(936)頃に坂東地方で発生した“平 将門(たいらのまさかど)の乱”以後、自らの土地を自らの手で守ろうとする土豪たちの動きが活発化。いわゆる武士の時代の魁が、武蔵野でも活躍し始めるのです。
当時の武蔵野は、「武蔵七党」と呼ばれる地侍的な結束集団によって支配されていました。室町時代中期の文書・節用集には、丹治、私市、児玉、猪俣、西野、横山、村山の七党が記されています。鎌倉時代から室町時代にかけては、これらの各党が和平協定や相互扶助を持ちながらも、画策、謀略を繰り返し、拮抗していました。
戦国時代に入ると、福生界隈は小田原の戦国大名・北条氏の支配を受けます。近郊の八王子(現在の東京都八王子市)に北条 氏照(ほうじょう うじてる)の居城が築かれました。この北条 氏照は、北条 早雲(ほうじょう そううん)より二代後の北条 氏康の次男です。

氏照は、早くから居城を八王子へ移したかったようです。その理由は、当時の八王子には“市”が栄え、経済的に豊かであり、伝統的な寺院、神社を有する門前町でもあったからでした。また、鎌倉街道や甲州街道が集まる要衝でもあり、軍事的拠点でもありました。
しかし、天正18年(1590)北条氏に悲劇が訪れます。
時代はすでに天下統一を目前にした豊臣 秀吉の手中にありましたが、北条氏は上洛要請に応じず、ついに秀吉軍は小田原へ向けて出陣します。世に言う「小田原攻め」です。
八王子城は完膚無きまでに叩かれ、たった1日で落城しました。見せしめの意味をこめて、秀吉が情け容赦の無い戦を命じたため、北条方の武将はほとんどが戦死、自害しています。あまりの残虐さに、小田原城で八王子城の悲報を聞いた北条 氏照は、床を叩いて号泣したと言います。
この八王子城の陥落が北条軍の志気を失わせ、7月には開城。北条 氏照は、兄の氏政ともに切腹しています。

北条氏照 書状
八王子城跡

しかし、戦の時代が終わり江戸時代に入ると、武蔵野は徳川家の天領として擁護されます。江戸と信越、甲州方面を結ぶ街道沿いの村落は、玉川上水のお蔭で、作封地から農耕地へと変貌し、江戸の人々の暮らしに大きな恵みをもたらしています。
そのためか、神仏・自然神などを崇める神社仏閣、御神木が、そこかしこに残されています。ちなみに、福生市は太平洋戦争での爆撃罹災が無く、古い屋敷、土蔵、土塀などを多く目にすることができます。
この「熊川神社」は、桃山時代の木造建築。東京都指定有形文化財である本殿の大屋根と境内の石畳、鬱蒼とした林には、500年前の壮厳な雰囲気が漂っていました。閑としたしじまに響く、拍手の音。真摯に頭を垂れる夫婦の姿が、往時の光景を偲ばせます。
また福生市は、かつて各集落で鎮守社として崇められていた七神の合社「神明社」を残しています。大きな鳥居をくぐると境内には梅や桜、楠の大木が茂り、季節ごとに地元の人たちへ安らぎを与えているようです。
また、このほかにも福生の街中を歩けば、古い瓦屋根を覆うように巨木たちが見え隠れするのです。

熊川神社
神明社
街中の御神木

そんなゆかしい風景に浸りながら散策していると、突然、耳を劈くような轟音が降ってきました。何事かと空を見上げれば、U.S.AIRFORCEの文字がハッキリと見えるほど、すぐ目の前に機体が浮かんでいます。
信じがたい光景ですが、それはまぎれもなく最新鋭の米軍機。思わず筆者は、「そうか、ここは横田基地の町だ!」と、夢想から現実に引き戻されたのです。
横田基地は福生市の東北部に位置し、市の行政面積の約32%を占めています。鉄条網で覆われた広大な土地には、米軍兵士たちやその家族が生活するためのあらゆる施設が整えられています。

ここは沖縄県の嘉手納基地、青森県の三沢基地とならぶ米空軍基地の一つです。当初は昭和15年(1940)旧日本陸軍立川飛行場の付属飛行場として開設され、“多摩飛行場”と呼ばれていました。
太平洋戦争中は日本の主要な航空機の試験場で、終戦直後には180機以上の最新鋭機が格納されていたそうです。ちなみに横田の名称は、当時の飛行場の北東にあった小さな村の名に由来しています。
横田基地周辺には、エキゾティックな空気が満ちています。「ルート16」と呼ばれる16号線沿いには、英語表示のアメリカンスタイルのショップ、バーが立ち並び、行き交うのも米軍関係の人たちが多いようです。
店先で親しげに「ハロー!ハゥアーユー」と言葉を交わす、日本人のオバサンと米軍兵士。ちょっとインタビューしてみると、「福生の町では、みんなフレンドなのよ」と笑顔で親指を立てて答えてくれました。

着陸する米軍機
横田基地
16沿いの店

武蔵野の風土、多摩の清らかな水、そしてエキゾティックなシーン……さまざまな福生の変貌を見守ってきた多摩川。その清冽な流れとともに、石川酒造は歩んできました。
重厚かつ広大な蔵棟、風格ある土壁の長屋門はまったく無傷のままで、そのほとんどが有形文化財に指定されています。また、高さ20メートル以上も聳えている一対の大欅は、樹齢500年。「夫婦欅(めおとけやき)」と呼ばれ、町のシンボルにもなっています。
地域に密着し、地元の誇りと賞賛されている銘酒・多満自慢。その味わいには、どんな魅力が秘められているのでしょうか。
春の訪れももうすぐ……多摩川沿いの美しい桜を想いながら、その名酒物語をじっくりと楽しむことにしましょう。

夫婦欅
銘酒・多摩自慢