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菊水酒造株式会社 ~歴史背景

越後の造り酒屋が急増したのは、新田開発の安定した江戸期後半から明治時代にかけてのこと。新発田でも、篤農家たちによって余剰米を使った酒造りが広がっていたことでしょう。
そして、明治維新とともに旧来の酒株による酒造特権が廃止され、新たな免許制度が始まると、酒造りを専業にしようとする人たちが頻出します。
菊水酒造の創業者 高澤 節五郎(たかざわせつごろう)も、そんな一人だったようです。
明治5年(1872)に、節五郎は弱冠16歳(数え年)で、叔父にあたる本家当主・高澤 正路より酒造権を譲り受けました。
現代からすれば、いまだ少年のあどけなさを残す若僧と思われがちですが、節五郎が誕生したのは安政4年(1857)。当時の男子は、物心つくころになれば丁稚小僧として奉公に出るのが当然でしたから、いっぱしの年齢になった節五郎が造り酒屋の主人を決意しても不思議はありません。

ところで、彼の胸には、どのような“青雲の志”が漲っていたのでしょう。
「お客様が『美味しいね』とおっしゃって下さる酒を、ひたすら追求してきた人物と伝わっております。彼は16歳で分家独立して酒屋を始めるわけですが、当初は技術・経験ともおぼつかず、年配の職人たちを頼った酒造りだったことでしょう。ましてや、現在のような純粋培養や酵母添加方式と異なり、蔵に漂う自然の酵母に発酵をゆだねるという酒造りですから、失敗するリスクは非常に高かったわけです。そうした腐心を重ねつつ、節五郎はひたむきに造り酒屋として生きた。その根底にあったのは、“お客さまの支持が、すべてだ!”という信条です」
節五郎から数えて五代目に当たる 高澤 大介 代表取締役社長は、こう語ってくれました。
蔵主ページにて後述しますが、高澤 社長の掲げる菊水酒造株式会社の哲理は、この節五郎の志を色褪せることなく、今に受け継いでいるのです。

明治6年(1873)廃城となった新発田城の跡地に、大日本帝国陸軍の歩兵第十六連隊が置かれました。
爾来、太平洋戦争の終結する昭和20年(1945)まで、新発田は軍隊の町としての性格を強めます。そして、おそらくこの軍人たちが節五郎の酒に惚れ込み、高澤酒造店の繁栄に少なからず影響を及ぼしたと考えられます。
この根拠となるのが、明治29年(1896)10月、節五郎は正式に清酒製造の免許を新潟県知事から公布されていることです。
彼の傍らでは、21歳になった嫡男の俊太郎が、若き日の自身のごとく酒造りに精を出していました。
たとえ美酒を醸しても、その翌年は腐造に陥ったりと、一気に斜陽・没落してしまうのが当時の酒造業。おそらく俊太郎は、節五郎から懇々と精進努力の訓示を言い聞かされたことでしょう。
節五郎の“お客様に喜ばれる酒造り”の精神は、二代目・俊太郎にしっかりと引き継がれます。そして明治38年(1905)2月、病に倒れた節五郎は酒造り一筋に斗した48歳の生涯を終えたのでした。

二代目・俊太郎は、好奇心旺盛なタイプ。しかも革新家の節五郎の血を引いているとあって、上質の酒造りに向けた新技術の探求を怠りませんでした。
業界仲間から情報を収集し、銘醸家がいると聞けば東奔西走。その蔵元を見学しては、新たな設備を積極的に取り入れることに努めました。
例えば、新型の精米機も他家に先んじて採用し、販売石数を伸ばしています。
当時の精米技術は、まだまだ水車による臼搗きがもっぱらで、大正初期にようやくアメリカ製の横型精米機が日本に輸入されましたが、途轍もないほど高額なシロモノでした。
しかし、俊太郎は敢えてこれを購入し、蔵を千石酒屋にまで成長させていますから、おそらくは最先端の灘や伏見などの技術情報にも詳らかだったのでしょう。

大正10年(1922)、俊太郎の長男・徳二郎が結婚。この頃、酒造りの規模は大きく飛躍し、製造は中倉に、営業は代々の元屋敷加治三日市で行いました。
製販分離することで磐石な経営体制を確立した俊太郎は、昭和初期の不況を焼酎造りで乗り越え、昭和10年(1935)60歳で県議会議員に出馬・当選。新発田の発展を背負う人物として数々の公職が持ちかけられ、多忙を極めます。
そんな彼を支え、蔵を守ったのが長男・徳二郎でした。

しかし、順風満帆だった高澤家に突然の不幸が重なります。
昭和15年(1940)無理の祟った俊太郎は脳溢血で倒れ、伏臥してしまいます。
その年の暮れには、父の病状に心労を重ねた徳二郎も腎不全を患い入院。あろうことか徳二郎は42歳の若さで妻・チヨと3人の子どもたちを残したまま、夭折してしまうのです。
この時、四代目となるべき徳二郎の長男・英介は11歳。千石酒屋の身代を守るにはあまりにも幼く、その重責は未亡人となったチヨの細い肩にのしかかったのです。
39歳のチヨが覚悟を決めて蔵元三代目を担ったのは、戦時統制の強まってきた昭和16年(1941)でした。
世間では食料から日用品まで配給制度によって制限され、もちろん清酒原料の米もその対象でした。おのずと、高澤家の生産量は激減。チヨにとっては、「廃業」の二文字が脳裏に浮かんでは消える日々だったでしょう。
しかし、三人の子どもたちへの愛と亡き夫や先祖への敬虔な誓いによって、チヨは艱難辛苦を耐え抜きます。
そして、終戦後は酒瓶のレッテルをカラーデザイン化し、製造石高を徐々に引き上げ、長男・英介の出番に備えたのです。

昭和29年(1954)チヨの後継者となった四代目・英介は、大学で学んだ“企業家としての経営学”を実践し、旧来の造り酒屋から酒造メーカーへと躍進を始めます。
家内工業の延長線上だった当時の社員は、わずかに7名。企業と呼ばれるにはほど遠い構成でしたが、若き英介の胸には、旺盛なチャレンジ精神と先見の洞察力が漲っていました。
獅子奮迅の働きで、英介は「人並みの会社にすること」を目標に設備を改善し、新技術を導入。企業としての体制を、整えていきました。

こうして昭和31年(1956)、菊水酒造株式会社が呱々の声を上げたのです。英介25歳、弱冠ながらバイタリティー溢れるその実行力に、初代・節五郎の抱いた“青雲の志”を重ね合わせたくなります。画期的な新蔵の建築など、次々と改革を進める英介。しかし、その躍進を阻むかのように天災が降りかかります。
昭和39年(1964)には新潟地震が突発、41年、42年には2年続けて下越大水害が発生。母なる加治川は猛然と荒れ狂い、土石流によって菊水酒造の蔵を破壊し尽くしたのでした。
悔しさに歯噛みし、落魄する英介でしたが、彼を支えてくれたのは「美味しい菊水を、待っているぞ!」と贔屓にして下さるお客様、厚い信頼で結ばれた従業員、そして愛する家族の存在でした。
廃業への不安は、杞憂となって過ぎていきました。

昭和44年(1969)4月、英介は新しい酒蔵を立ち上げ、ここが現在の菊水酒造の核となっています。その3年後には、業界に先駆けて杜氏制を廃し、社員による酒造りと技術革新による合理化を図りました。
英介が旧来の酒造りから脱却した理由を思うに、それは“企業としての酒造りの価値”へのあくなき追求だったのではないでしょうか。つまり、酒造りの季節だけにやって来る出稼ぎ職人は、企業資産とはなり得ないわけです。
そんな新たな試みを進める中、昭和47年(1972)、一条の光が菊水酒造に射し込みます。
日本で初めて、缶入りの生原酒「ふなぐち菊水一番しぼり」を発売する運びとなったのです。

生酒は品質管理が難しく、商品化するには問題点が多々ありました。生きている酒だけに加熱殺菌できず、劣化しやすく、出来立ての味をキープする技術はまだまだ未熟な段階。
しかし菊水酒造へ見学にいらしたお客様の「出来立ての酒って、こんなにうまいんだね!」の言葉に、英介の決断が下ったのです。
この日から英介と若き社員たちの苦闘の日々は続き、ようやく3年後「ふなぐち菊水一番しぼり」が完成しました。
お客様に喜んでもらえる酒のために……それは、節五郎譲りの酒魂のしずく酒でもあったのでしょう。

昭和50年代以後、当社はさらに“顧客第一主義”を掲げ、食文化の進化とお客様の志向に応じた銘酒を発売してきました。そして、美味しさとともに、安心・安全をお約束する製品を提供しております。さらには、お客様に日本酒の美味しさ・楽しさを存分に味わって頂くためのコミュニケーション活動も目下のテーマです。つまり、美味しい日本酒という“モノ”の魅力と、より良い暮らしを創る“コト”の価値を融合し、いつもお客様のベネフィットとともにある菊水酒造を目指しています」
四代目・英介氏の長男である高澤 大介 社長の言葉にも、先人たちの紡いできた節五郎の哲理を感じます。
その実現は、次なる蔵主紹介でじっくり伺うこととしましょう。