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菊水酒造株式会社 ~プロローグ

飯豊連峰の雪解けと加治川のしずくに命を醗す、新発田の銘酒「菊水」

飯豊連峰の銀嶺 節五郎蔵

新潟県新発田市に、広々とした敷地を持つ菊水酒造。その近代的な工場とシンメトリーするかのように、木肌の優しい「菊水日本酒文化研究所/節五郎蔵」が一画に佇んでいます。
雑木林に溶け込むその蔵から遥かに仰ぐのは、白絹の衣をまとったような飯豊連峰の頂き。たおやかに裾を広げる稜線は、あたかも清楚な花嫁衣裳のようにも思えてきます。

加治川の冬景色

奇しくも、ここ新発田市を代表する画家・蕗谷 虹児(ふきや こうじ)の作品に「花嫁人形」がありますが、在りし日の彼も、この凛とした冬の新発田の遠景に感慨深く耽っていたのかも知れません。そんな想念を醒ますように、時折、目前の加治川の藪から野鳥のさえずりが甲高く響きます。冬枯れた加治川のほとりに立ってみると、寂寞とした気配の中に吸い込まれるようで、澄んだ冷気がシンシンと身に迫ってきます。その清冽な伏流水は、菊水酒造の仕込み水の源でもあります。ところが、春の陽が雪解けのせせらぎを流し始める頃、加治川はその表情を一変させます。
川堤には新緑が芽吹き、水辺は百花繚乱たる季節を予感させるのです。そこには“新発田市の樹”である桜の蕾もほころんでいます。

絢爛たる旧・桜並木

昭和の半ばまで、この加治川の堤は日本一の桜名所と称えられていました。
延々20kmにおよぶ桜のトンネルが続き、明治時代や大正期は、新潟など他市から遊山にやって来る花見客で大いに賑わいました。おそらく、見物客たちは煮売り茶屋の手桶弁当や重箱とともに、銘酒「菊水」を楽しんだことでしょう。
しかし、その長大な桜並木が、今はもう跡形もなく消え去っています。
これまで再三にわたる水害が発生し、堤防は決壊を繰り返しました。その改修工事のために、6千本もの絢爛たる桜が伐採されてしまったのです。
今は、おとなしそうに見える加治川ですが、かつては暴れ川として怖れられたのです。
下越地方の新田開発の歴史は、これらの河川の放水路を確保することから始まりました。新発田などの平野は海べりの砂丘に遮られていたために、雪解け水が下れば一気に水かさは増し、多くの潟が氾濫。泥流が、ことごとく集落を襲ったのでした。

加治川分水門

しかし、度重なる水害から立ち直ってきた新発田の町は、明治40年頃から大正時代にかけてようやくオランダなどから灌漑用水技術を導入し、加治川との共生に成功します。
この「加治川分水門」は、新発田市など北蒲原平野の干拓治水の苦闘を象徴する構造物。今はその役目を果たし、「加治川治水公園」のシンボルとして水辺にひっそりと佇んでいます。春には、満開の桜がそのノスタルジックな姿と相まって、往時の憧憬を髣髴とさせてくれるのです。

五十公野公園あやめ

近代までは潟の散在する、いわば湿原であった新発田の素顔。それを物語る花が、市の花「菖蒲(あやめ)」です。
初夏のたおやかな風がそよぐ頃、中世の新発田では、水田の原風景の片隅に紫色の菖蒲が彩りを添えていました。この楚々とした花をモチーフにして、今も新発田市民にこよなく愛されているのが「新発田城」です。
別名「菖蒲城」と呼ばれ、城濠は万朶の花に埋め尽くされていたそうです。その名残を、「五十公野公園あやめ園」で目の当たりにすることができます。

溝口 秀勝

思うに、草木を濠に自生させたまま放置するのは、外敵の侵入に対して野放図なこと。しかし、この城を築いた新発田藩6万石の蔵主・溝口 秀勝(みぞぐちひでかつ)は、菖蒲の妙なる色艶を愛でるのを選んだと言われています。
ちなみに菖蒲は、武家時代に梅雨の風流として、一輪挿しにも好まれました。
新発田城の基盤は、戦国時代末期まで地域を領していた新発田氏の居館跡です。
新発田氏は、越後の大名・上杉氏の武将として活躍しましたが、天正9年(1581)織田 信長に内応し、下剋上。上杉 景勝としのぎを削りますが、7年間の抗争の末、天正15年(1587)に攻め滅ぼされました。
その後、慶長3年(1598)豊臣政権によって上杉 景勝は会津に転封。新発田へ溝口 秀勝が加賀大聖寺より入封して、慶長7年(1602)からこの城の普請が始まったのです。
外様大名ながら、徳川家から格別の薫陶を受け続けた溝口家は、幕末まで移封されることなく十二代を累しています。武士道のみならず、茶の湯や風雅にも通じた造詣の深さは、別邸「清水園」の瀟洒な佇まい、庭園の幽玄な気配にも窺い知ることができます。

新発田ふるさと祭

そんな城下町を盛り上げる大イベントが、8月末の「新発田ふるさと祭」。お盆休みで帰省した人々も加わって、新発田最大のイベントに盛り上がります。
この祭りは江戸中期から270年以上も続き、新発田の鎮守社である諏訪神社の祭礼に由来しています。
「帰り台輪」と呼ばれる神輿台の曳き出しは、享保11年(1726)に始まったそうで、いなせな若衆の曳手たちが台輪に身を乗せ、前後を激しく上下させる「あおり」を行うと、やんやの拍手喝采とともに祭りは最高潮に達します。
そして景気付けに、新発田で造られている銘酒が大いに振舞われるのです。

加治川の清流

現在、新発田市の人口は、およそ10万。産業は、藩政時代から営んできた稲作が中心です。
極上のコシヒカリを筆頭に五百万石などの酒造好適米も収穫され、そのせいでしょうか、食品関連企業や酒造会社がいくつも存在しています。
そんな上質の米を育てるのも、優れた企業を育てるのも、流々として新発田平野を肥やしてきた加治川であると言って、過言ではないでしょう。

余談ながら、毎年、清流の床で生まれる鮭は必ず加治川へ回帰し、新たな生命を水底に宿しています。加治川には、下越を潤してきた静謐な水神が宿っているのかも知れません。
その澄み切ったしずくから、銘酒「菊水」の命もまた誕生しているのです。
飯豊連峰の雪解けと加治川のしずくに命を醸す、「菊水」……その瑞々しい物語に、酔いしれることとしましょう。