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株式会社醉心山根本店 ~歴史背景

伽羅色の出格子や虫籠窓を残す蔵棟、分厚いナマコ壁の土蔵。カタカタと懐かしい音を立てる醉心山根本店の格子戸をくぐれば、ほのかな灯りと長い石畳の廊下が郷愁を誘います。
現在、三原市で酒蔵の看板を掲げているのは、今回訪問した株式会社醉心山根本店のみ。江戸時代以後、最盛期には十数軒が営業した広島の酒どころですが、徐々に暖簾を下ろし、今や「醉心」は三原市民にとってもかけがえのない地酒になっています。

「当家の創業は、万延元年(1860)。これは、初代の山根 忠兵衛(やまね ちゅうべい)がお隣の尾道にあった山根本家から分家し、三原へやって来た年です。尾道の古刹・西郷寺(さいごうじ)には、二十数代を辿る本家の位牌が置かれております。山根本家は、代々酒造りだけでなく、醤油・味噌醸造、塩田経営、そして廻船業なども営み、苗字帯刀を許された豪商でした」
蔵元五代目の山根 秀朋(やまね ひでとも)会長は、丁寧かつ穏やかな口調で解説を始めました。残念ながら、初代の人物像までは知る由も無いと語りますが、醉心山根本店の出発点は、三原に移住した忠兵衛が地元で300年以上続いていた蔵元・桜井家を買収した時であることが明らかになっています。現在の本社に残るレトロな趣きには、この桜井家の遺構がそのまま生かされているのです。

さて、桜井家の創業は小早川 隆景の時代に遡ります。永禄10年(1567)に三原城が完成した際、城下町は東町と西町に分割されましたが、この時すでに桜井家は酒蔵を営んでいました。また、幕末まで桜井家の土地は海岸に臨んでいたため、帆船を使って江戸まで酒樽を運び、早くから首都圏の市場を掴んでいたようです。
詳らかではないものの、これほどの身代を手に入れる忠兵衛ですから、並みの人物でなかったことは推察できましょう。
二代目・英三の時に「醉心」の原点が、呱々の声を上げます。年々好評となり地域ごとに銘を変えて売り出していた山根家の酒は、明治半ば頃、20数種に及んでいました。これを統一すべく思案投げ首していた英三の夢枕に白髪の老人が立ち、「醉心(よいごころ)とすべし」と告げたのです。
この改銘から有罫に入り、醉心の躍進が始まります。明治45年(1912)には大蔵省主催の第二回全国酒類品評会でみごと1位を受賞。広島酒=田舎酒と軽んじていた市場に一石を投じたのです。

幕末から明治期にかけては地方の蔵元が扱う原料はまだまだ粗く、技術・設備も近代化とほど遠い形でした。例えば、精米は牛馬や人力を使って石臼を挽く粗末なスタイル。むろん蔵の中に冷房設備は無く、酒仕込みの桶も雑菌が繁殖しやすい木製。このため、いずこの酒蔵も頻繁に腐造を引き起こしていました。
また、当時の酒は原酒のまま火入れせずに酒屋、料理屋へ運ばれ、店頭で割り水や他酒とブレンドして売られることが常識でした。したがって、不衛生になるリスクが非常に高かったわけです。
しかし、山根家は500石程度の醸造量ながら、これらの条件下でも丁寧な酒造り、安定した販売ルートを実現していたのです。

大正時代には、いよいよ中興の人物・三代目・山根 薫(かおる)が登壇します。
筆者は醉心山根本店を訪れる前に、驚くべきエピソードを入手していました。それは、醉心が近代日本画壇を代表する巨匠・横山 大観(よこやま たいかん)に愛飲され続け、「我が主食は醉心」とまで豪語されていたこと。しかもその酒は、醉心から終生無料で贈られていたという事実です。それを約束し、大観と半生にわたって金襴の友であり続けたのが、三代目・薫でした。
この横山 大観との友好関係は後ほどじっくり綴ることとし、まずは薫の人物像と功績を彼の孫である山根 会長に訊ねてみました。

「五代続く蔵元の中で、最も傑出した人物です。素材の探求、酒質の向上、商品開発、販売ルートと、多岐にわたって天稟の才を備えていたと思います。まず、大正3年(1914)国税庁醸造試験所による全国蔵元の優良酵母分離において、当社からは協会3号酵母が認められ、脚光を浴びました。さらには大正8年(1919)、10年(1921)、13年(1924)と全国酒類品評会において3回連続第1位を獲得し、3回受賞の蔵元だけに贈られる名誉賞もダブル受賞しています。

これを記念し、薫は“名誉醉心”と銘じた2ℓ瓶の酒を発売しました。同様な画期的商品に、石英で作った1合瓶もありました。硬い石英の瓶は落としても割れにくく、大好評だったようです。また、販売面では値引きに応じず、品質に自信を持ったセールスを続けました。当時、一般清酒が1.8ℓ瓶1本当たり1円20銭でしたが、名誉醉心は6円で販売したのです。また、薫は米国・カリフォルニア州へも輸出し、移民の人々や日系人たちに喜ばれました」
そう言って、山根 会長がおごそかに用意してくれたのが、なんと今から80年前の「名誉醉心」のボトル。瓶の中には酒が入ったままで、今も超古酒として熟成を深めていました。これは日本酒党にとって垂涎の的どころか、まさに「お宝」と言っても過言ではないでしょう。
この名誉醉心の成功により、昭和初期には東京、大阪に支店を開設。販路は関東、東海、関西、九州へと拡大したのです。

語れど尽きぬ薫の功績ですが、山根 会長のトークはいよいよ佳境へと入って行きます。偉大なる画伯・横山 大観と醉心の秘話に、興奮と期待が高まります。
横山 大観と醉心のえにしは、昭和始め頃の東京・神田支店に端を発します。連日、酒を買いに来る富貴な雰囲気の女性に、「毎度ご贔屓を頂き、有難うございます。どちら様でしょうか?」と店員が訊ねてみれば、彼女は大観の妻・静子でした。
静子の話しによると、夫・大観はまろやかでありながら辛口の醉心を痛く気に入っているということでした。
その頃の東京では“灘の宮水”を筆頭に、硬水仕込みのゴツイ味わいの酒が市場を占めていました。これは、軟水よりも硬水の方が腐造しにくいため。つまり、ミネラルを含んだ水により酵母活性が著しく高まり、手早く雑菌の少ない酒が造れるためでした。

しかし、広島県は安芸津杜氏のパイオニアである三浦 仙三郎(みうら せんざぶろう)翁の尽力により、軟水を使った酒造に関して一頭地を抜いていました。醉心の丹念かつ希少な軟水仕込み、その甘露な旨味が大観の芸術性にピッタリと一致したのでしょう。
「昭和16年(1941)、とある広島県出身の国会議員の葬儀で、薫は初めて大観先生の謦咳に接します。そこでお互いの胸襟を開き合い、大観先生の自宅へ招かれ『酒造りも、絵画も同じ芸術なのだ』と意気投合。感動した薫は、先生の生涯にわたって醉心を贈ることを確約したのです」

そう語る山根 会長に「俗説によると、横山 大観は1日に二升三合の酒を飲んでいたそうですが?」と投げかければ、「それは真実ですよ」と山根 会長は答えます。
昭和50年(1975)頃、若かりし山根 会長が東京都台東区池之端の横山大観記念館(旧・大観自宅)を訪れた折、大観の直弟子兼付き人をしていた老師から「晩年こそ一升程度でしたが、旺盛な頃はご自身の体調に合わせ、二升三合を割り水されて飲んでいました」と聞かされたのです。しかし、横山 大観は単なる大酒呑みの酔っ払いではありません。早朝からの作品構想や絵画創作中は一滴も口にせず、昼下がりから酒に耽り「私は、ただ一介の酒徒でありたいのだ」と語ったそうです。

ちなみに、大観は美酒の返礼として、毎年に作品一点は醉心山根本店へ寄贈しました。また、薫は昭和30年(1955)に逝去するまで、大観が逗留する熱海の伊豆山荘や古屋旅館へたびたび出向いています。
薫の後を追うかのように、昭和33年(1958)横山 大観は89歳の生涯を終えていますが、酒の贈呈はこの時まで続き、薬を飲むにも醉心が必要だったそうです。
大観から贈られた数々の逸品は、現在、株式会社醉心山根本店内の「大観記念館」に収められています。

ここで、横山 大観の名言「醉心は我が主食なり」にちなんだ秘話をご紹介しましょう。
昭和20年(1945)3月10日、東京大空襲によって首都圏社会は瓦解し、流通・物流網は麻痺したままでした。勿論、大観もその辛酸を嘗めたわけですが、その2週間後に、彼は山根 薫に「何とか酒を送って欲しい」と直筆の手紙をしたためています。
大観は、ふだんの手紙は妻の静子に代筆させていましたが、のっぴきならない件に関しては、自ら筆を取っていたようです。

窮乏と荒廃を極めた時局に、広島から東京まで酒を届けることなど異例中の異例でしたが、横山 大観は時の運輸大臣・五島 慶太(ごとう けいた/東急グループ創始者)と親しく、特別なはからいを頼んでいました。

五島大臣は醉心を三原にあった旧・国鉄糸崎駅長から東京駅長への手荷物として、隠密裏に運ばせました。それが可能だったのは、当時の糸崎駅が中国地方の物流拠点であり駅長ランクも高く、少々の無理なら融通がきいたことにありました。
醉心を手に入れた大観はホッと胸を撫で下ろすのですが、その直後、五島大臣は運賃代わりに、輸送した酒の半分を大観へ要求したのです。

大観はこれに激怒し「私にとって、醉心は単なる嗜好品ではない。私の命をつなぐ主食なのだ。それなのに、法外な手数料ではないか!」と抗議したところ、五島大臣も負けてはおらず「不可能を可能にするのだから、これでも安過ぎるぐらいだ!」と反論したそうです。
この豪傑同士のやり取りを想わせるエピソードは、「大吟醸生地鳳凰醉心」の口上書にもしたためられています。

さて、時代は四代目・卓三(たくぞう)の頃へ移ります。太平洋戦争が終結し、陸軍第五師団・浜田連隊の大尉から復員した卓三は、薫の成し遂げた偉業を推進し、新たな市場作りに挑みます。
すでに業界では、薫が編み出した日本初の「瓶囲い」による貯蔵方法が評価されていました。
これは、タンクや桶のままで酒を貯蔵するのではなく、瓶1本ずつに詰め替えることで、無類の旨味を熟成させる方法です。血の滲むようなきつい仕事ですが、卓三はこれに磨きをかけ、昭和31年(1956)超高級志向の芸術酒「ヤング醉心」を発売しています。

また、設備の近代化にも取り組みますが、麹造りや袋搾りなど頑なに手造りへこだわり続け、アル添酒ブームに惑わされることなく、特級酒造りを主にした蔵元であり続けました。
こうして卓三の堅実な経営により「広島に醉心あり」と謳われた醉心山根本店は、昭和50年(1975)以後の地酒ブームに乗り、そのブランドをさらに浸透させていったのです。
ところが、地酒市場での人気をよそに、昭和末期から平成初期にかけて予期せぬ事態が起こっていました。
三原に限らず、広島県の蔵元が使う水は徐々に硬水へと変化していたのです。その原因は郊外住宅化による土地造成、森林の伐採や河川の整備など、環境破壊がもたらしたもののようです。

昭和55年(1980)に父親の卓三から継承、五代目となっていた現会長・秀朋 氏は、改めて「本物の軟水仕込みへの回帰」を先祖の遺影に誓います。そして、次期蔵元となる長男の雄一(ゆういち)氏とともに精力的に水脈を探り、平成12年(2000)広島県賀茂郡福富町の鷹ノ巣山麓で、硬度14という無比なる超軟水を掘り当てたのです。
井戸周辺には清冽な沢の流れるブナの原生林が茂り、醉心山根本店はこの名水を「ブナのめぐみ」と謳っています。
「使い始めて5年目ですが、水の問題は杞憂に過ぎてくれそうです。この水は、名水百選に勝るとも劣らない水ですよ」

常務取締役の雄一氏がふるまってくれた水は、すっと喉に入る澄んだ味わい。この水に切り替えた途端、醉心は平成12年(2000)、13年(2001)、14年(2002)の全国新酒鑑評会で、金賞を連続受賞。他にも海外を含めたさまざまな賞を獲得し、広島酒復活のリーダーとして、またもや注目を集めているのです。
横山 大観の糧となり、名作を描かせた酒……そんな想いを抱きつつ筆者が醉心純米大吟醸を一口含んでみると、陶然とするほどの美酒でした。
その麗しいほどに旨い酒は、数々の名画とともに、三原の宝物として継承されていくことでしょう。