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株式会社醉心山根本店 ~プロローグ

目前には、秋晴れにさざめく瀬戸内海。借景のような島々とうっすらと霞む“しまなみ大橋”が旅情を誘います。
ここは広島県三原市を一望する、瀬戸内海国立公園の「筆影山(ふでかげやま)」。標高311mの頂上に立ち、そのパノラマを耽美すれば、誰もが“美しい島国・日本”をあらためて実感することでしょう。穏やかな凪の海が、三原と四国を結ぶ航跡をまばゆく映し出しています。
中高年の地元登山者にインタビューしてみれば、「四季折々の景観をここから望むたび、懐かしい時代や幼い頃の思い出が浮かんできますよ」と素朴な笑顔を返してくれます。

そんな人たちに三原のご自慢は何かと訊ねてみると、「そりゃあ何と言っても、この瀬戸内海で獲れるタコでしょうね」とのこと。新鮮な三原産の真ダコは甘味があって、お年寄りでも安心して食べられるほど柔らかいそうです。

三原では昔からタコ漁が盛んで、近年は町おこしの一環として「タコの町・三原」を全国的にアピールしています。確かに、JR三原駅で発売している名物「たこめし弁当」は、ほのかな醤油味とタコの身が絶品の味。全国の駅弁の中でも、ベスト10に数えられる人気商品なのです。

また、広島県沿岸部は魚介類の宝庫で、その理由は中国山地の滋養に満ちた水が地元の沼田(ぬた)川を下り、流れこむためのようです。ちなみに、今回訪問する株式会社醉心山根本店では里山の奥深くに井戸を掘り、ここから湧き出す超軟水を酒の仕込みに使用しているのです。

さて、三原の歴史を語る上で欠かせない存在が「JR三原駅」。読者の皆さんは、三原駅が実は「三原城跡」の石垣の上に乗っかっていることをご存知でしょうか?
取材班もそうでしたが、新幹線ホームから出てくる人波のほとんどは見落としている様子。しかし、駅の裏手に回れば、その説は一目瞭然。苔生した堅固な石積みが、駅舎をしっかりと支えているのです。
この三原城は、芸備地方を領した戦国武将・毛利 元就(もうり もとなり)の三男 小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)により、永禄10年(1567)に築城されました。現在残されている遺構は本丸跡のみで、本来のスケールは見る影も無いほどですが、当時は東西900m、南北700mの城内に、本丸・二之丸・三之丸のほか、32の櫓と14の城門を備える海城でした。
小早川軍と言えば、毛利船団の先陣を務めた浦(うら)一族を始め、水軍の猛者ぞろい。おそらく往時はこの海城から幾百艘もの軍船が出陣し、縦横無尽に海原を帆走していたのでしょう。
沖から眺めれば、三原城の姿はあたかも海に漂っているように見え、ここに逗留した豊臣 秀吉、徳川 家康も「聞きしに勝る、浮き城!」と賞賛したほどでした。

小早川氏の源流は、桓武平氏の後裔で相模国の土豪・土肥 実平(どいのさねひら)です。
治承4年(1180)源氏に寝返っていた実平は源 頼朝の伊豆挙兵で活躍し、その後、鎌倉幕府成立とともに備前・備中・備後の守護を命じられ、後々の小早川氏繁栄の礎となりました。
そして、実平の嫡男・遠平(とおひら)は小早川を名乗り、安芸国沼田庄(現/三原市沼田地区)に地頭職を与えられ本拠を構えたのです。この時に築かれた城郭が「高山城(たかやまじょう)」。田園風景と沼田川を眼下に望む山の頂に、かつて難攻不落の砦が聳えていました。
さらに、承久3年(1221)に勃発した“承久の乱”においても小早川氏は鎌倉方として軍功を挙げ、新たに竹原庄(現/広島県竹原市)の地頭職も加増されます。
この時の当主は遠平の孫・茂平(しげひら)。茂平は、嫡男の雅平(まさひら)に沼田小早川を相伝し、その弟・政景(まさかげ)には竹原庄の地頭職を任せ、これを竹原小早川としたのです。こうして、小早川氏は沼田と竹原に分かれました。
しかし天文13年(1544)、竹原小早川の当主・興景(おきかげ)が病死すると両家に存亡の危機が訪れます。興景に嫡子は無く、しかも沼田小早川の当主・繁平(しげひら)が盲目であったため、両小早川家は談義を重ね、ついに強大な勢力を持つ他家と養子縁組することを果断したのです。



ここに登場するのが、繁平の妹を娶った小早川 隆景。すなわち毛利 元就の三男・隆景でした。
隆景は二つに分かれていた小早川家を束ね、吉川家を継いだ兄・元春(もとはる)とともに毛利 隆元(もうりたかもと)・輝元(てるもと)の宗家筋を盛り立て、芸備地方での磐石な領国体制を成していきました。ちなみに竹原小早川家は、始祖・政景(まさかげ)の一字「景」を通字として、代々継承しているのです。

江戸開幕とともに毛利家は萩へ減封、小早川家にもその圧力は及びました。
芸備地方49万8千石をまとめた広島藩は、関ケ原戦の論功行賞を得た外様大名・福島 正則(ふくしま まさのり)の手に渡ります。
しかしながら、この福島氏も元和5年(1619)広島城の無断修復を幕府に咎められ、信濃川中島4万5千石に減封。この後、広島藩には紀州浅野家(松平家)が入封し、明治維新までの250年間、三原は浅野家の支藩とされたのです。
それでも、三原市の文化・風土には、小早川家の趣が今も色濃く残されています。
例えば、市内のそこかしこには城跡を取り巻くように古式ゆかしい伽藍や塔頭が覗き見え、寺社仏閣の多さを感じさせます。
中でも国の重要文化財に指定されている「宗光寺(そうこうじ)」は、小早川 隆景ゆかりの名刹。きざはしを登れば、みごとな甍を連ねる山門に圧倒されます。

この寺は、隆景が両親である毛利 元就夫妻を偲ぶため高山城内に建立したものですが、三原城普請とともに城下町の西面を守る砦として、現在の地に移されました。
さらに市の郊外・本郷地区には、臨済宗大本山として知られる「佛通寺(ぶっつうじ)」が荘重な伽藍を配しています。建立は応永4年(1397)、高山城主の小早川 春平(はるひら)が名僧・愚中 周及(ぐちゅうしゅうきゅう)禅師を座主に迎えています。往時は、広大な山麓に88もの寺や僧房を備えていました。
鬱蒼と木立が繁り、静寂に満ちた境内にたたずめば、幽玄と侘びさびの世界に包まれることでしょう。

三原市を代表する「神明市(しんめいいち)」「やっさ祭り」も、小早川時代を髣髴とさせる風習でしょう。
毎年2月に催されている「神明市」の起こりは、室町時代末期。元来「神明市」とは、当時に流行した“お伊勢参り”に端を発する、全国的な伊勢神宮のお祭りでした。
その頃の三原では、旧暦1月14日に、とんどを撒いて伊勢神宮の神棚を飾り祀り、軒先には翁人形やだるまを飾りつけ、数百の露天が立つ目抜き通りは民衆が踵をつめるほど活況を呈していたとか。小早川 隆景はこの祭りを治世安泰・大衆繁栄の証しと考え、繰り出す人々や店先の景気を監察し、その年の豊凶を判断したようです。
芸備地方に春を告げるこの「神明市」には10万人が繰り出し、時代情緒たっぷりの醉心山根本店の玄関前も人煙と雑踏で賑わいます。

また、「やっさ祭り」は三原城の完成を祝う民衆が、三味線、太鼓、笛などを打ち鳴らし、思い思いの歌を口ずさみながら踊り出たのが始まりと言われています。
爾来、三原の慶祝事は“やっさ”に始まり“やっさ”に終わるとされ、その歌や踊りは決まりきった型にとらわれない自由奔放、愉快闊達なものとして、今日までさまざまに変化しながら伝承されています。

祝い酒に酔って「やっさ!やっさ!」と囃したてる市民の表情には、430年の歴史と伝統が息づいているのでしょう。思うに、その酒は、三原を代表する銘酒「醉心」であったのかもしれません。
芸備の歴史をそこかしこに映し出す町。そして、唯一の酒蔵として伝統を紡ぎ続ける名醸「醉心山根本店」。
美しい自然、ゆかしい文化とともに醸されてきた名酒物語を、始めることにしましょう。