プロローグ

奥の松酒造株式会社

みちのく・二本松の静謐さと

みちのく・二本松の静謐さと、天稟の吟醸造りに酔いしれる。

悠久の時代から変わることのない、みちのくの朝焼け。静謐な遠景にうっすらと連なるのは、阿武隈山地の稜線です。陽が昇れば、その裾野には緑したたる深い森と田園が広がり、二本松の地を育んできました。
ここは地元で“乳首山(ちちくびやま)”と呼ばれる、標高1,700メートルの安達太良山(あだたらやま)。展望台から望む360度のパノラマは、福島県二本松市を訪れる旅人を魅了してやみません。

二本松市は福島市と郡山市のほぼ中央に位置する人口36,000人の田園観光都市で、都会の雑踏とはかけ離れた豊かな自然に囲まれ、平安時代から湯どころとして宮中に知られていた岳(だけ)温泉卿とともに観光客たちを迎えています。

近郊には流域面積東北第3位の阿武隈(あぶくま)川が、絶えることなく滔滔とうねっています。清らかな水を湛える流れは、この地が奥州の長い歴史の中で、豊かな穀倉地帯として栄えてきたことを明言しているようです。

山紫水明、牧歌的な里村、のどかで詩情に満ちた二本松の魅力は、かの芸術家・高村光太郎の詠んだ“智恵子抄(ちえこしょう)”からもうかがい知れます。

あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川、ここはあなたの生まれたふるさと・・・

二本松は、光太郎の最愛の妻・智恵子の故郷でした。
夭逝した智恵子は、長引く都会暮らしの中で「東京には、本当の空がない」と嘆いています。

なるほど、澄み渡る安達太良の空には、碧い色と一片の雲だけ。智恵子が慕ったであろう光景を、目の当たりにする気分です。
彼女の生家は記念館として市街の一角に残され、二本松をこよなく愛する人たちに守り継がれています。

安達太良山から望む、朝焼け
みちのく・阿武隈の山並み
阿武隈川
安達太良山
智恵子記念館

二本松の歴史は古く、平安期より陸奥の国の要衝として栄えました。市内の安達ヶ原には、旅人の生き胆を喰らった“鬼婆(おにばば)”の伝説が残されています。歌舞伎でも知られるこの悲話ですが、“観世寺(かんぜじ)”には鬼の棲み家があり、少し下った阿武隈川のほとりには、墓とされる“黒塚”が残っています。
鎌倉末期の南北朝以後、二本松は幾多の戦乱に翻弄されます。
北朝方の足利尊氏から“奥州探題”を任されたのは、畠山 高国(はたけやま たかくに)。北条氏によって滅ぼされていた“御家人(ごけにん)”の後裔です。その血脈を復活させたのは、実は足利氏でした。二本松畠山氏の初代は、清和源氏本流の足利 義純(あしかが よしずみ)なのです。

正平元年(1346)、高国は二本松の塩沢に砦を築き、北朝方の拠点として権力拡大を狙います。それ以後、地元の土豪との軋轢、戦乱が次々に勃発、一進一退の攻防を繰り返しながら、二本松畠山氏は戦国期までこの地に君臨しました。

天正14年(1585)、十五代・義継(よしつぐ)は敵対する伊達 政宗(だて まさむね)と激突します。義継が政宗の父・輝宗(てるむね)を罠にかけ、拉致したのです。
しかし、独眼竜の凄まじい攻撃に畠山軍は総崩れし、義継は戦死。居館・霞が城(かすみがじょう)に篭っていた十六代・義綱(よしつな)は、隣国の領主・相馬 義胤(そうま よしたね)を仲介役に頼み、降伏しました。しかし義綱は、天正17年(1589)常陸の国において葦名 盛重(あしな もりしげ)に殺害されています。

このように、戦国期の二本松近郊では畠山氏、伊達氏、芦名氏、最上氏などの策謀・抗争が幾度となく繰り返され、その度に霞が城の城主も入れ替わりました。
蹄と轍の跡に荒れ果てていた二本松の地がようやく平穏を取り戻したのは、天正18年(1590)、豊臣 秀吉の家臣・蒲生 氏郷(がもう うじさと)が、伊勢松阪から会津92万石の領主として入城した頃でした。秀吉の天下統一がじわじわと波及し、奥州の下克上も終わりを告げようとしていたのです。

鬼婆の棲み家
霞が城 箕輪門櫓

そして江戸開幕後、三代将軍・徳川 家光(とくがわ いえみつ)は、寛永20年(1643)二本松藩の領主に、祖父・家康の好敵手だった丹羽 長秀(にわ ながひで)の孫を選びます。初代蔵主・丹羽 光重(にわ みつしげ)です。
かつて織田家重臣であった丹羽 長秀は、安土城普請の責任者を担当しています。つまり丹羽家には築城技術に秀でた者が多く、それに目をつけた徳川家が霞が城の再建・強化も含めて抜擢したのでしょう。
関ヶ原での敗戦後は領地没収、家系を解体され、流浪し、心胆を寒からしめた丹羽一門。
光重はこれを機に、“家憲”(藩の戒め)の中で「上は公命を尊重し、下は士民を仁恤(じんじゅつ)せよ」- 上は幕府の命令を尊重し、藩士や領民に対しては情けをかけた政治を行うように - と記しています。
この教えは五代蔵主・丹羽 高寛(にわ たかひろ)の時、藩士の戒めとして巨石に刻まれました。“戒石銘(かいせきめい)”と呼ばれるこの石は、長さ約8.5m、最大幅約5m。往時のまま、霞が城を仰ぎ見る一角に据えられています。
その主意を継承し、藩政225年間を守り続けた蔵主たちは、菩提の大麟寺(だいりんじ)で静かな眠りについていました。

丹羽 光重
戒石銘
大麟寺

さて、二本松市を象徴する3つのモチーフを紹介しましょう。
まずは、戊辰戦争に散った“二本松少年隊”です。
明治元年(1868)、北上する官軍を迎え撃つべく“白河城の戦い”に加わった二本松藩士は、最先端の西洋銃器の前になすすべもなく後退していました。さらに、敵将・板垣 退助の率いる支隊は、地元の本宮村を占領し、二本松本隊の帰路を遮断します。
霞が城には、女・子どもと留守役の老臣が控えるのみでした。
藩政始まって以来の危機に、藩士の子弟たちは意気高揚して出陣を訴えます。
二本松藩は、17歳から12歳までの少年たちの嘆願を聞き入れ、出兵を許可します。
「武士の誉れ」とばかりに、母親が夜なべして縫い上げた陣羽織を喜色満面でまとう少年隊藩士。62名の若葉のような命が、花も咲かさず散っていきました。

そんな子どもたちへの慰霊も込めて、藩祖時代から360年の歴史をつなぐ祭りが“二本松提灯祭”です。
領民の幸せ、藩政の安泰を願った伝統の祭礼は、今では市民の家内安全、無病息災の記念行事となっています。300個の提灯をともし、お囃子に合わせて練り歩く7台の屋台は、壮観かつ優雅さを感じさせます。毎年10月4日から3日間にわたって催されますが、この日ばかりは市内も深夜まで賑わい、県内外から多くの観光客が訪れるそうです。

この二本松提灯祭りとともに、未曾有の災害となった東日本大震災からの復興を支えるのが“二本松の菊人形”です。
大小10万本の菊の花を飾り立てるこの秋の祭典は、福島県民からこよなく愛され、例年のNHK大河ドラマをテーマにするなど、国内最大級の菊人形です。霞が城に凛として咲く万朶の菊花には、みちのく復活の願いと被災者への鎮魂が込められています。

二本松少年隊の像
陣羽織
提灯祭
菊人形

そして、再び立ち上がる福島県ブランドを牽引する美酒が、「奥の松」。その銘を“奥州”と“二本松”に由来し、平成28年(2016)には創業300年を迎える名醸です。蔵主の遊佐(ゆさ)家は、先祖を二本松畠山家の重臣にたどります。事実、この地の鎮守である“二本松神社”を訪れた際、氏子提灯の筆頭に、現会長・遊佐 静子 氏の名を見つけました。まさに、この地の歴史と趨勢を担ってきた名門と言えましょう。
近年は7年連続して全国新酒鑑評会の金賞を受賞し、過去20年間では17回を誇る天稟の吟醸造りが「奥の松酒造」の矜持です。
悠々たる安達太良の山々を仰ぎつつ、その魅力に迫ってみましょう。

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