Vol.102 夏の燗

マチコの赤ちょうちん 第一〇二話

関東地方が梅雨明けした日、昼過ぎの東京は30℃を超える暑さになっていた。
町は夜になっても熱気をはらんでいて、マチコにやって来る男たちはワイシャツに汗のシミを作り、額をじっとりと濡らしていた。
店内はほぼ満席、カウンターが2席空いてるだけで、おかげで真知子は、今日2回目の生ビールの樽を入れ替えている。
「あちぃ~! ヒェ~、冷たいの切れてるのかよ~」
外の暑さから逃げるようにして入って来た澤井が、ビヤ樽を替えている真知子を目にしてうなだれた。
「こっちだって必死なんだからね。ちょっとぐらい辛抱しなさいよ! ほんと、みんな子どもなんだから」
首に巻いたタオルで汗をぬぐう真知子が、カウンターに座る面々を呆れ顔で見回した。
そこには宮部がグッタリともたれかかり、たまにやって来る地元商店街の親爺たちが「まだかよ~、真っちゃん」と空のジョッキを持って、せかしていた。
「澤井ちゃん、次はあんたの番よ。ビール注ぐまで、津田さんとチェンジね」
でき上がった料理をテーブル席に運びながら、真知子が目で厨房の中をさした。
洗い場には、引き揚げた客のジョッキが山と詰まれ、それを津田がテキパキと洗っていた。
「おっ! 澤井ちゃん ええタイミングや。常連さんは、一人ジョッキ10個洗うのんが、ノルマちゅうこっちゃ」
ネクタイを取って腕まくりしている津田は、澤井と目を合わせるや、泡だらけの手でおいでおいでをした。
「はあ? 涼みに来たのに、何でまた暑いことしなきゃいけないんだよ~」
ガックリとうなだれる澤井の肩を「はい~、ごくろうさま! でも、私もさっきやったんだからね!」と宮部が叩いた。
ふうっとため息を吐いた澤井が腰を上げかけた時、カウンターの奥から声がした。
「あの……僕にやらせてもらっても、いいですか?」
一瞬、カウンターの男たちの声が止んだ。視線が集まった先には、坊主頭の若者が座っていた。
白い清潔そうなTシャツとGパン姿が、その風貌に似合っていた。
津田と宮部が「へっ?」と顔を見合わせ、澤井が「何でまた?」とつぶやいた。
若者の手元にはお燗酒が置いてあり、今さらながらそれに気づいた商店街の親爺たちは「こんな暑い夜に、お燗酒か!」と目を丸めていた。
「さっき、女将さんにお燗酒のおかわりを頼んだのですが、けっこう忙しそうだから、自分で燗してもいいかなと思って。そのついでに、洗い物もできますし。僕、お燗つけるの、けっこう得意なんですよ」
その言葉に、真知子が「ごめんなさいね、お待たせして。いいわよ、厨房に入るの特別に許しちゃう! ってか、御言葉に甘えちゃうね」
若者は真知子に「僕、三上って言います」とお辞儀すると、厨房の前で律儀な一礼をして中へ入った。
「おっ! あの子……料理人やな」
そのしぐさに、カウンター席に戻った津田が冷酒を傾けながらつぶやいた。
三上は、まずジョッキを洗い上げた。泡も飛び散らず、すばやく無駄のない手つきに、澤井と宮部は「ほう~、こりゃビックリだ!」と感心した。
そしてお燗場に立つと、一変して湯せん器をじっと見つめ、指先を水道水で何回も濡らしながらお銚子の肌を手で確かめていた。
「すみません、女将さん。何度も頼むのはお手間をかけるので、お銚子2本を燗させてもらいました」
燗を終えて席に座った三上が、真知子に会釈した。
「あなた、すごいわ。あのジョッキ、プロの洗い方ね! ねえっ、そのお燗酒。一杯もらっても、いいかしら?」
「どうぞ! 光栄です」
三上はぽっと頬を赤らめて、真知子に酌をした。
カウンターの男たちが見つめる中、真知子はくいっと盃を干し、しばらく目を閉じていた。
「……美味しい。温かさも味もほど良いわねえ。これ、山廃をお燗したのよね。コツってあるの?」
真知子の真剣な表情と言葉に、客たちは口をつむり、耳をそばだてた。
「コツって言うか、お燗の基本を真面目に繰り返している内に、何となく僕には分かってきたんです。いろいろなお酒の種類や温度で、確かにお燗の味は変わるんですけど、一番大事なのは、お燗番する人の心だと思います。単に酒を温めればいいことじゃなくて、そのお客様が頼んだお酒で、一番美味しいお燗酒を飲んでもらうことを考えたら、いろいろこだわることになります。今日は特に暑くて、いつもより手の感覚が鈍くなってますから、水で冷やしながら、ちょうど良い温度を測っていました。そうするか、しないかで、お燗の味は変わると思います」
三上のしっかりとした口調に聞き入っていた津田が、顔をほころばせた。
「なあ真っちゃん、嬉しいなあ。こんな若者が、まだ日本にはおるんやで~」
その言葉に、商店街の親爺たちもウンウンとうなずいた。
「ねえ、三上君。俺も、ちょっともらっていいかな?」
澤井が頼むと、堰を切ったように「俺も!」「わしにも!」と声がかかり、三上のお銚子は空っぽになった。
「お~! こりゃあ、山廃の酸味がほど良い燗だねえ。こんなうまい燗は、そうそう飲めないよ。よ~し、もうビールはおしまいだ。お燗酒は、腹具合にも良いしね」
酒販のプロである宮部が絶賛すると、何事かと気にしていたテーブル席の客たちが「お~い、こっちにも、そのお燗酒くれよ~!」と騒ぎ始めた。
「まったく、何なの今夜は? ビールかと思えば、お燗酒って。もう、誰か厨房を手伝ってよ」
そこへガラリと格子戸が開き、ハンカチで顔をぬぐう松村が現われた。

「暑っつう~! 真知子さ~ん! とにかくビ、ビー……うん?」
カウンターの客たちが手にする燗酒の盃に、松村は訝しげに瞳を凝らした。
「な、な、何ぃ~? みんな、お燗酒なの~? こんなに暑いのに、まるで“飛んで火にいる夏の虫”じゃん」
すると、カウンター席の全員が、声を揃えて松村に厨房を指差した。
「はい! それは、今夜のあなたです~」
マチコの熱い夜に、男たちの笑いがドッと巻き起こっていた。