Vol.104 麦わら帽子

マチコの赤ちょうちん 第一〇四話

連日36℃を続ける関東地方の暑さは、その日とうとう都内で38℃を超えていた。
夕方になってもマチコの通りのアスファルトは熱気をとどめたままで、猫一匹すら見かけない。
陽が落ちると、男たちはワイシャツの背中に大きな汗のシミをこさえて、「ふぅ~」と顎を上げたままマチコの暖簾をくぐっていた。
松村と澤井、そして宮部も同様で、カウンターに座ってしばらくは、汗がおさまるまで口数が少なかった。
「長い梅雨のせいで夏は短いと思ってたけど、こんなに暑くちゃ、もたないよ。夏バテしないように、今年はビールを控えるつもりだったのに」
宮部が、日焼けした額をおしぼりで冷やしながらぼやいた。ビールのジョッキは、もう3杯目が空になりかけている。
だが、カウンターの客たちは誰も同じようなもので、暑気あたりした真知子は空のジョッキを前にうんざりの面持ちだった。
キンキンに冷えたジョッキを松村が飲み干し「ウヒー!」と奇声を発した。
その直後、カウンターの奥から渋い声が聞こえた。
「女将さん、熱燗のおかわりをもらえますかな」
「えっ、ええ~!? 熱燗かよ?」
三羽烏のように、澤井たちが口をそろえてそっちを見た。
陽焼けた顔の老人が、褐色の手で白いお銚子を振っていた。てかる鼻っ柱と頬はほんのりと赤く、太い首は健康的な血色を浮かべている。
「冷やっこい酒は、腹に合わないもんでね。わしは50年間、夏も熱燗です。
そのお蔭なのか、ずっと夏バテ知らずでしてね」
「こちら、大野さん。最近、隣町へ越して来たご隠居さんなの。昔は庭師をしてらしたの。それで引越しのご挨拶がてら、ご近所の植木の剪定をしてあげたら、そこのご主人がうちの常連さんだったの。美味しい熱燗酒を飲める店を訊いてみたら、マチコだって教えてくれたそうよ。大野さん、今日みたいな暑さでも、ほんとに美味しそうに熱燗を飲まれるのよ」
真知子が「おひとつ、どうぞ」と次のお銚子を傾けると、老人は湯気の立つ盃をうまそうにすすった。すぼめた口で盃を迎えるその姿に、周りの客たちも表情を和ませた。
「ようっし! 心頭滅却すれば、火もまた涼しだ。俺も、熱燗酒にしてみっかな」
ようやく汗のおさまった澤井が、宮部のビールを横目にして、真知子に注文した。
「ま~たぁ、すぐ感化されちゃって。よしなよ、澤井さん。店の中だってクーラーがそんなに効いてないじゃんか。外は今夜も熱帯夜だし、帰りにバテちゃうって。それに大野さん見てると、俺たちと鍛え方がちがうよ。血色といい、日焼けといい、今でも現役みたいじゃん。ジョギングとか水泳とか、やってません?フィットネスクラブに通ってたりして。ねえ? 図星でしょ?」 少々酔ってきた松村が、大野に笑みを投げた。
「いやいや、もう老いぼれですよ。そんな今風なことはやったことがないです。そうですな、しいて言えば、案外こいつが健康の秘訣かもしれません」
大野はそう言って、ふちの大きな麦わら帽子を手にした。
長年使い込んでいるのか、所々が飴色に変わっている。
「へぇ~! 年季が入ってますねえ、その麦わら帽」
澤井が、何の変哲もない麦わら帽子をしげしげと見つめると、大野は「こいつをかぶるのが、癖になっちまってね。でも、昔の物はいろいろ便利なんです。不思議な力を持っているしね」と目尻にやさしげな皺を寄せた。「夏の暑い日には氷嚢を頭のてっぺんに置いて、こいつをかぶるんだ。そうすると頭の熱が下がって、体も動きやすくなるんですよ。氷がない時は、いったん水をすくって麦わらを湿らせる。そうするとしばらくの間、頭が涼しいんですよ。私は現役の頃、いつもそうしてた。それから麦わらは風を通すし、蒸れにくい。だからほら、私の髪はまだまだ濃いでしょう」
前頭部の薄くなった宮部がはっとそこを押さえ、「なるほど……俺はキャップばっかりだから、蒸れるのかもな。会社の帽子、来年から麦わらにしてもらおうかな」と真面目な顔をしてつぶやいた。
「……なるほど。麦わら帽って、かぶるたびに思い出が浮かんでくるよなぁ。あの独特の匂いも、懐かしいもんな」
しみじみと言う澤井の横で、製氷機の氷をビニール袋に入れた松村が、頭のてっぺんにそれを乗せていた。
「おっ、おっ!おっ! これ、効く効く! ほんとキューンと頭の芯が冷たくなってきたよ」
そのようすに真知子がふっとほほ笑むと、大野は目を細めながらつぶやいた。「嬉しいですねえ……若い人たちとこんな話題で盛り上がれる酒場が、まだあったんですなあ」
その時、玄関から太い声が響いた。
「いやいや、若いもんだけとちゃいまっせぇ~」
カウンターの面々が振り向くと、蚊絣の浴衣に下駄履きの津田が立っていた。右手は中くらいの麦わら帽子を逆さに提げていて、その中には茄子やキュウリが入っていた。
「おお、これはまさに、日本の夏ですなあ~。懐かしいなあ」
笑顔をほころばせる大野の隣へ、津田はゆっくり自己紹介して座った。
そして麦わら帽子をカウンターに置くと、鼻髭をつまみながら松村たちに自慢した。
「さっき、駅前の八百秀の前を通ったら、久しぶりに女将さんと顔合わせてもうてな。『あら~、今日はまた、粋な男前だねえ!』ちゅうて、これをマチコへ持ってお行きよってなもんや!どや、お前さんらみたいな若い者には、でけへん芸当やろ」

そう言って津田はぬる燗を注文すると、丁寧におじぎして大野と盃を合わせた。
「俺は、麦わら帽でトンボを獲った」
「魚もすくったよなあ」
「俺の麦わら、田舎の実家にまだあるかなあ……」
いつの間にかカウンターに座る客たちが、麦わら帽子の思い出を口々に語り始めていた。
「みんな心の中に……ひとつひとつ、すてきな麦わら帽子があるんだ」
一人ごちる真知子の瞳に、童心に戻った男たちの笑顔が揺れていた。