Vol.109 バッテリー

マチコの赤ちょうちん 第一〇九話

公園のイチョウがようやく秋の彩りをうつろわせ、夕暮れのベンチで寄り添うカップルに黄色い落ち葉をこぼしていた。
通りの角っこで白い湯気を昇らせる屋台のラーメン屋に、松村は11月の訪を感じた。
マチコの店先まで漂ってくるうまそうな匂いに、松村は「あそこのアゴダシのスープ、うまいんだよなあ」と後ろ髪を引かれながら格子戸を開けた。
カウンター席では宮部と澤井が、お燗酒でさしつさされつしていた。その奥には、六十がらみのスーツの男が座っている。
宮部と澤井が開いているスポーツ新聞に、松村はいじわるげに声をかけた。
「飽きもせず、弱いチームの野球談義に盛り上がってんの?」
「うるせえ、もう今年のシーズンは終ったの! 来年は、ジャイアンツ復活だよ」
巨人軍の熱狂的ファンの澤井は、今年のシーズン中はまったくつまらない顔で野球のことを口にしなかったが、オフになったとたん、がぜんジャイアンツの名を口にした。
「でも、ここんとこ、日本シリーズってパ・リーグばっかり勝ってるねえ。俺の中学生の頃みたいだなあ。来年こそ、ベイスターズ。そろそろ根性見せてもらわないと、横浜在住の俺としてはメンツが立たないよ」
もう赤くなっている宮部は、紙面を指で叩きながら言った。
「無理ですよ~。ベイスターズは、ベッターズのままですよ。来年はタイガース! まだまだ、元気っすからねえ」
カウンターの端に座った松村に、けげんな顔で宮部が訊いた。
「ベッターズって、何よ?」
噴出しそうになるのをこらえる松村に真知子がクスリと笑って、「べッタって、関西の言葉でビリってことなの」と宮部に答えた。
「ちくしょう……悔しいけど、当たってるもんな。あ~あ、昔の大洋ホエールズの頃が懐かしいよ」
宮部が背中を丸めてしょげるのを見て、澤井が言った。
「そうだよなあ。V9時代のジャイアンツがキリキリ舞いするピッチャーだっていたもんなあ。平松とか斉藤とか……そうだ! 3年ぐらいで消えちゃったけど、葵ってスゴイ人がいたじゃない。超高校級で、一年目にダントツ新人王だった奴」
「V9って、そんな化石みたいな時代……俺、生まれてねえや」
茶化す松村に、一瞬、奥の男のキツイ視線が向いたのをマチコは気づいていた。
宮部が、思い出したように答えた。
「ああ~、いたねえ。高速スライダーが決め球だった。しかも、手前でストンって落ちてくるんだよ。あれ、落差40センチとかって言ってたもんな」
澤井が目の前の一升瓶を手にして「これぐらい落ちるの。すごいね」と感心すれば、松村が「そりゃないでしょ。大げさだよ」と鼻で笑った。
「いや……正しくは、45センチだ」
カウンターの奥から、少し怒っているような声が響いた。三人が見ると、老けた男は盃をコップに変え、その目つきは座り気味だった。
「えっ……あっ、あの、お詳しいんですね」
男の面持ちにたじろいだ澤井が、愛想笑いしながら言った。
「あいつの球、受けてたんだよ」
澤井の顔を睨みながらコップ酒をあおる男に、宮部がポンッと手を打った。
「あなた、大洋の杉沢選手ですよね。高校時代からずっと、葵さんとバッテリー組んでた。いっや~、驚いたなぁ。葵投手のスライダーは、杉沢さんにしか捕れなかったんだよ」
宮部の言葉に男はふっと苦笑したが、思い出したかのように松村を睨んだ。
「そっちのあんた。野球のこと、これっぽっちも分かっちゃいないのに、馬鹿にするもんじゃない」
「はい……すみません」
ふだんなら盾を突くはずの松村が素直に頭を下げると、真知子が「大きななりして、子どもなんですよ」と杉沢のコップに酌をした。
「大きななりしてか……ふっ、俺もあいつも、同じことを言われたことがあったよ」
杉沢は皺深くて分厚い手を、しみじみと見つめていた。
「あのぅ……葵さんは今、どうされてるんですか?」
しばらくの沈黙をはさんで、澤井が訊ねた。
「投げてんだろうなぁ……あの世で」
杉沢は酔いにまかせるように、悲しげな声でカウンターに突っ伏した。
そして、葵との野球人生をとつとつと問わず語りした。
「……2人ともガキだった。入団早々、天狗になっちまってな。金も入るしチヤホヤされて。ダメになるのも同時だった。あいつは、肩を壊して自由契約。俺は腰が悪くなって、お払い箱。何もそこまで一緒じゃなくていいのにと、首になった時は笑い合ったけど、それからが大変だった。束縛されるのが嫌いな俺たちは、それぞれ水商売を選んだ。二人とも何度も失敗して、あいつは最後にはちっぽけな屋台のラーメン屋の親爺で、去年の暮れに一人寂しく死んじまった。気をまぎらす相手は、俺とコップ酒しかなかった。だけど俺は、奴に『お前は商売人に向いてないよ。サラリーマンになれ』って、今の会社を紹介された。そして、俺だけが生き延びてる。本当は、あいつが勤めるはずだったんだ……それが、罪な気がしてならないんだよ。女房役の俺が最初にしっかりしてりゃ、きっと二人とも……あいつと、もう一度だけ、キャッチボールしてみたいよ」
杉沢の声が震えて、コップ酒の中に一滴のしずくが落ちた。
澤井たちが口をつぐむと、真知子が氷水のグラスを置きながら言った。
「葵さん、きっと喜んでるんじゃないかしら。一心同体の二人だからこそ、自分の失敗が杉沢さんに生きてるって。そんなふうに、あなたが昔を忘れずにいるのは、葵さんとずっとキャッチボールできていることじゃないですか」
はっとした杉沢はワイシャツの袖で顔をぬぐって、はにかんだ。

「……今日からは、そう思わせてもらうよ。あんた方にも、やつ当たりしてすまなかった」
「ほんと、子どものままですねぇ」と笑う真知子に、澤井がつられて答えた。
「いつか僕らだって、空の上に行っちまう日が来るんですから。……葵さんと、また野球ができますよ」
「そうだな、ありがとうよ。……じゃあ、そろそろ引き揚げさせてもらうよ」
杉沢がゆっくりと腰を上げた時、いつも間にかいなくなっていた松村が、息を弾ませながらラーメンを手にして立っていた。
「あの……よかったら、ラーメンどうすか」
スープのいい匂いと白い湯気の向こうで、杉沢の涙が光っていた。