Vol.110 時効

マチコの赤ちょうちん 第一一〇話

羽織の袂を合わせながら、首をすくめる津田が、通りの先からふらりふらりとやって来た。大島紬の裾は、ようやく冬本番を告げるかのような木枯らしにめくられている。
それでも、今しがたまでいた銀座の街角を飾るクリスマスのデコレーションが、何とも気ぜわしいものに思える津田だった。
「もうちっと、ゆっくりならんもんかいなぁ。毎年のこっちゃけど、師走になる前から、せわしないこっちゃ」
つぶやきながらマチコの戸に手をかけると、同時にさし出された手が赤いちょうちんの灯に照らされた。
「おっと、これは失敬。どうぞ、お先に」
格子戸を譲る津田の手の甲が、折り目正しくひるがえった。
「いや、これはかたじけない。それじゃあ、甘えさせて頂きます」
古めかしい言葉だったが、津田は心地良さげに視線を向けた。
津田と同じ年かさの男が、ソフト帽を取りながら会釈していた。
白髪にこげ茶色のジャケットが似合う男は好々爺の雰囲気を感じさせたが、目尻の皺にはかすかな鋭さが刻まれていた。
「あっ……失礼ついでに、お訊ねしてもよろしいでしょうか。こちらのお店に、うまい日本酒はありますか? 私、最近この先へ越して来たもんで」
男の言葉に、津田はいっそう顔をほころばせた。
「そらもう、ご心配には及びませんわ。何やら私も、今晩はええ酒が飲めそうな予感がします。お一人さんでっか? よかったらご一献、お付き合いいただけまへんか」
口元に白い歯を覗かせる男に、津田はさりげなく暖簾をたくし上げた。
あいにくカウンター席は澤井や松村を含めて満席だったが、津田は真知子の顔が見えるテーブル席に腰を下ろした。
津田が名乗ると男は平井と答え、二人は丁寧におじぎを交わした。
「あれが、ここの女将です。器量よしでお人よしの、ええ女でっせ。真っちゃん、こちら、日本酒つうの新顔さん。平井さんや」
津田の声に、おしぼりを持って来た真知子が「ようこそ。どうぞ、こちらからお選び下さい。お好きな銘柄があるかしら?」と冷蔵ケースを指さした。
「これは、うまそうな酒がたくさん揃ってる。目移りして、困りますなあ。じゃあ、まずは女将さんおすすめのヤツで乾杯といきましょうか。津田さん」
真知子を立てながら自分へ気づかう平井に、津田の心はくつろいだ。それとともに、人の気持ちを読むのが上手な男だと思った。
4杯、5杯とさしつさされつするうち、津田は大阪で小料理屋を営んでいることを打ち明け、平井の素性をなにげなく訊ねてみた。
「いやいや……もう世間からリタイヤした、ただのヒマ人ですよ」
平井は口をにごしたが、ふと見せた遠い目が津田の心にひっかかった。
底のつきそうな冷酒デキャンタを見計らったように、真知子が真新しい一升瓶を持って来た。
「津田さん。これ、北陸の珍しいお酒なの。カウンターにいる福井出身の方も知ってて、昔から手に入りにくいお酒なんですって」
真知子がちらと振り向いた先で、六十がらみの男が、赤い顔で冷酒をかたむけていた。
「おお~、わしもこれは1回しか飲んだことないわ! 平井さん、これはめったに飲めまへんでぇ! 何せ……」
自慢顔で語ろうとする津田の口が、止まった。鋭くなった平井の目が、まばたきもせずにカウンターの年老いた男を見据えていた。
「阿久津……とうとう見つけたぞ」
視線を外さないまま立ち上がる平井に、津田は「おっ、あの、どないしたんや?」とうろたえた。
呆気に取られる真知子の前で、平井はゆっくりと男に近づいて行った。
険しい表情でカウンターの端に立ちはだかる平井を、松村が「酔っぱらったの?」といぶかり、澤井は「何か……ヤバそうな気配だな」と中腰になっていた。
「25年は、長かったよ」
平井がつぶやくと、グラスを持つ男の手がピタリと止まった。
店の中は、水を打ったようにシンと静まっていた。
機械じかけの人形のように、男の顔はゆっくりと平井を見上げた。
「平井のダンナ……長い間、手間をかけちまいました」
次の瞬間、男はほっとした表情をこぼすと、観念したかのように両手を差し出した。
平井はしばらく黙り、長い息を鼻から吐いて、その手を下ろさせた。
「えっ? な、な、何? どうしたの?」
松村のうわずった声が、目を丸める男たちを代弁していた。
平井は張り詰めた雰囲気の客席に向かって、深々と頭を下げた。
「皆さん、お楽しみのところを申し訳ありません。真知子さん、警察を呼んで頂けますか。……ここにいる阿久津貫一は、私が25年間追い続けていた男です。福井県で起こった殺人事件の容疑者です。一昨年、私が定年を迎えた時、その事件も時効となってしまった。しかし、ようやく、ここで決着をつけることができそうです」
毅然として告げる平井の顔は、老練な刑事の顔に戻っていた。
「うむ……苦節を重ねたけど、おてんとう様はちゃんと見てくれはったんや」
津田の言葉としおらしい阿久津のようすに、真知子もコクリとうなずいた。
しんと冷えた夜気の中に、パトカーのサイレンが近づいて来た。
客たちが見守る中、阿久津の手を引いて玄関へ向かう平井は、ふと足を止め、津田と真知子に頭を下げた。
「津田さん。あなたに会わなければ、私はマチコに入らなかった。そして、あなたがおっしゃった通り、今晩はいい酒が飲めました。女将さんも、本当にありがとう」

「……これからも、うまい酒を一緒に飲りましょうなぁ。ここの面々も、お待ちしてまっせ」
津田の目尻がメガネの奥で下がると、松村や澤井も「もちろん」とうなずいた。
「ダンナ……最後にあの酒。飲ませてもらえないですか」
阿久津の落ち着いた目元が、テーブルに置かれた福井の地酒を見つめた。
「ああ。一杯だけにしとけよ。お前、肝臓がよくないんだから」
「あっ……ご存知だったんですか?」
そう言いつつも、阿久津に冷酒グラスを渡しかけた平井は、それをコップに変えていた。
「鯖江にいる、お前の息子……ずっと心配してるぞ」
なみなみと注がれた酒の中に、阿久津の落としたしずくが波紋を広げていた。