Vol.112 サンタクロース

マチコの赤ちょうちん 第一一二話

木枯らしに震えるかのように、マチコの格子戸がカタカタと鳴いていた。
24日の夜、店には年輩客がチラホラ座っているだけだった。曇りガラスを通して、かすかにケーキ屋のジングルベルの曲が聞えている。
筋向いのそのケーキ屋が、今年で店を閉めることを真知子は思い出した。関西なまりのある老夫婦が作るケーキやバウムクーヘンは人気があったが、跡取りがおらず体も辛くなってきたと、白髪の妻が近頃よく口にしていた。
「澤井ちゃんも、和也君も、今晩はお家に一直線やな」
津田の吐き出すタバコの煙が、ぽっかりと席の空いたカウンターに広がっていた。
「今年も、シングルべルかぁ。私もそろそろ、イイ男見つけちゃおっかなぁ」
燗したお銚子を指でつまみながら、真知子がつぶやいた。
「なぬ! そ、それは聞き捨てならん。言うとくが、わしの目にかなわん男はあかんでぇ」
口元をゆがめる津田と同じように、テーブル席の客たちも顔を曇らせた。
「誰かに盗られるくれぇなら、うちの次男にもらいてえよ。どう? 真知子さん」
八百秀の大将が赤ら顔でおもねると、「おまえさんとこなんぞ、対象外。猫に小判だよ。それよか、うちの孫はどうかねぇ?」と万亀堂まんじゅうのご隠居が顔をほころばせた。
「けっ! あのデブっちょか。それこそ豚に真珠じゃねえか」
「何を言うか! そっちこそ、しなびたタクアンみたいな体をしおって」
顔を合わせば悶着を起こす2人に、津田が「懲りへん人らやなぁ」とため息ついた。
その時、格子戸が開いて、若い男が顔を覗かせた。
その手はケーキ屋で買ったらしい赤い箱を提げている。
「一人なんだけど……いいすか?」
「おっ!」「むっ!」「ほう!」と客たちが口々にもらすほど、ジーンズにダウンジャケットの男は、爽やかな笑顔と白い歯が印象的だった。
八百秀と万亀堂は周囲の雰囲気に気をそがれ、津田は「まっ、わしほど男前やないな」と腕組みしながら負け惜しみを言った。
男は客たちの声にキョトンとしつつ、カウンター席の真ん中に座った。
「山廃のぬる燗と“きずし”を……あっ、ごめんなさい。シメサバだ」
その注文に真知子が「あら、関西?」とつぶやいて、津田の顔を見た。
きずしは、シメサバのことを言う関西の言葉だった。
「ふむ……そのようやな」
津田は盃から離した唇を突き出し、仏頂面で答えた。
「あっ、そうなんです。京都生まれの京都育ちで……食べ物の名前だけは、いまだに京都のアクセントが抜けなくて」
「なるほど~、それで歌舞伎役者みたいなイイ顔してるのかねぇ」
渋い顔の客たちの中で一人だけ惚れ惚れとする魚源の大将に、八百秀と万亀堂がしかめっ面を向けた。
「あら? お客さん、ほっぺたに何か付いてるわ」
真知子が自分の頬をさわりながら、男に示した。男の左のもみあげには、白い綿クズが付いていた。
「えっ、ここ?」
男がまちがえて右の頬を探ると、真知子の指がそっと綿クズをつまみ取った。
「あっ! そんなこと!」「ちくしょう、悔しい~」
客たちが口走ると、一瞬、顔をしかめた津田が盃を飲み干して言った。
「あんた、そのケーキ、持って帰らんでもええのんか? 彼女が待ってるんとちゃうか? 今日はここ、男ヤモメの巣なんやけどなぁ」
遠回しなその口ぶりに、真知子が呆れ顔をした。
「まったく、八百秀さんたちと同じね。それじゃ、ミイラ取りがミイラじゃない」
ところが、男は津田の言葉にふっと表情をゆるめた。
「ちゃいますねん。俺、そこのケーキ屋さんで、昨日と今日、サンタクロースの格好してましてん。さっき女将さんに取ってもらった綿は、サンタの髭ですわ。このケーキ、余ったから持って帰りって、くれはったんです……よかったら、皆さんでどうですか」
まったりとした京言葉が、男の口からこぼれた。それは津田のものと少しちがっていたが、若い年齢ながら落ち着きを感じさせた。
「アルバイト? でも、フリーターしてるって年齢でもないでしょうに」
「ええ……先週子どもが生まれて。ヨメさんと子どもは、まだ入院中です。そやから、今夜はシングルベルですねん」
真知子に男が答えると、とたんに津田たちの顔が打って変わってニヤけた。
「そうかいな~。いやいや、それはおめでとうさん! 乾杯しよやないか。あんさん、お名前は?」
「京極って言います」
津田の酌を受ける京極の前で、今度は真知子が眉をしかめた。
「何だぁ~、そうなの~? やっぱ、イイ男は早く売れちゃうもんなのねぇ。ところで、ケーキ屋さんのサンタはどうして?」
「子どもの頃、あの店のご夫婦にお世話になって……俺、京都の養護院育ちなんです。その当時、京都に住んではったあのご夫婦が、毎年クリスマスケーキを子どもらに持って来てくれてたんです。親父さんはサンタの格好して。奥さんの実家の事情で東京に引っ越してからは、この地元の養護院へケーキを持って行ってはります。今年、俺は東京へ転勤になって、あのケーキをまた食べれると喜んでました。でも、残念やけど、もう店をやめてしまうんです。それで、せめて最後はお手伝いしたいって、今年は俺もサンタになったんです」
京極の言葉が止まると、客たちは「それ知ってたよ……俺も」「人のいい夫婦なんだよねぇ」とつぶやいた。
耳をかたむけていた津田が、空の盃を手にしたままの京極にもう一度酌をした。
「京極はん……それで、ええのんか? あんたは」
「……でも俺、ケーキよう焼きませんし。よその店で何個も買うほど、ボーナスもないし」
左手を握りしめる京極の前に、真知子がケーキの箱を置いた。

「クリスマス料理でも、子どもたちは喜ぶんじゃないの。美味しい食材は、ここにいるサンタさんたちが提供してくれそうだしね~。それに、私だってケーキは焼けるわよ~」
真知子の声に、客たちがそろって顔をほころばせた。
京極はとまどいつつも、ケーキの箱を開けた。すると、その手が一瞬止まり、肩が小刻みに震えた。
「これ見たら……やらんとしゃあないわなぁ」
穏やかな笑みを浮かべる津田が、京極の肩を優しく撫でた。
“京極サンタ君、これからも子どもたちをよろしく!”
板チョコにクリームで書かれたメッセージが、京極の潤んだ瞳に揺れていた。