Vol.113 ぼたん鍋

マチコの赤ちょうちん 第一一三話

初仕事を終えた男たちがしめ縄を提げた玄関を出たり入ったりと、正月明けのマチコは気ぜわしく始まっていた。
宮部が今日納品したばかりの大吟醸の新酒は次々に注文され、あっという間に空っぽになっていた。どの客も羽振りよさげで、赤い頬と同じように懐もあったかそうである。
「まったく……新年早々、皆さん、景気がよろしいですねぇ~」
値段の張る大吟醸を注文しかけてやめた澤井が、羨ましげな口調で本醸造の冷酒グラスをかたむけた。
「へっ! あっしには関わりのねぇこって……景気がいい、いいって言ってるけどさぁ、いったい金はどこを回ってんだよ」
澤井と同じ酒をチビチビとなめる松村が、焼き鳥の長楊枝をくわえながら愚痴った。
そんな彼らをよそに「おおっ! 明けましておめでとう」「今年も元気で、飲みましょうや」と、顔見知りの客同志で交わす挨拶は賑やかだった。
「2人とも、年明け早々ぼやいてんの? 今年は猪突猛進~。頑張る、頑張る!もうすぐ、津田さんが送ってくれた丹波のぼたん鍋ができるから」
「うひょ~! そうなの。亥年のスタートは、やっぱそうこなきゃ!」
「それ先に言ってくんなきゃ、困るよぉ~」
とたんに、澤井たちの顔がほころんだ。正月明けに津田が送ってくる丹波の猪肉は極上モノで、味噌ダレは津田自身が仕込んだ自信作だった。
大皿に盛られた猪肉は、あだ名の通り真っ赤な赤身と白い脂身でみごとな大輪を咲かせ、一瞬、カウンターの客たちをどよめかせた。
視線を注がれるのがまんざらでもなさげに、澤井は鍋を焚き始めた。
グツグツと土鍋が煮え始めると、味噌と肉のうまそうな湯気が漂った。
「やっぱり味噌仕立てのぼたん鍋には、辛口の本醸造だねぇ。これこそ、ツウの楽しみだよ」
松村は、聞こえよがしに声を高めた。
「分かっちゃないな。猪肉にもあちこち、いろいろあんだよ。それに本当のうまさは、肉だけにあるんじゃねえよ」
ふいに松村の後ろから、その声がした。テーブル席で背を向けている男が発したらしく、合い席の客はけげんな一瞥をくれていた。
「とっ……何だよ、猪のプロみたいな口調じゃない」
口を尖らせる松村に振り返った男の顔は、酔ったせいで日焼けが赤らんでいる。はだけたジャンパーの胸板が、たくましく盛り上がっていた。
「純粋な野生の猪ってのは硬くて、さほどうまくないんだ。ガキの頃までは飼育する方がいい。いわゆる、ウリボウの頃だな。その頃に地元のうまい米や野菜を食わせて、口を肥えさせる。いい頃合になったら山へ放して、自然の実りから選んで食わせる。だから、その地元の芋や茸、野菜と一緒に煮てこそ、うまいんだよ。猪と野菜に染みこんだ、土地の恵みが溶け合って絶品になる。そして、味つけは地元の味噌、酒も地酒だ。猪の食ってた米で造った酒なんて、俺はうまいと思うぜぇ」
男の言葉はウンチクめいたものじゃなく、山のオーラを帯びているような響きがあった。
まわり客たちは、感心した顔で聞き入っていた。
「まあ、そんな酒はちょっと難しいだろうけど……でも、お見それしました。その通りだと、僕も思います」
松村がいつになく素直にシャッポを脱いで、頭を掻いた。
男は田舎じみた笑顔を返すと、鍋を作っている澤井に近寄った。
「俺、武藤ってんだ。5年前まで、岩手でマタギやっててな。ちょっと箸、貸してみろ。うむ……こりゃいい肉だ。上手に血抜きできてらぁ。ゴボウと大根がポイントだからな」
無骨な指だったが、武藤の優しさがその動きに表れていた。
「何だか……山の匂いがしてきそうだね。武藤さんって」
澤井がつぶやくと、武藤は照れ臭そうに鼻先で笑った。
ほほ笑む真知子が、武藤の前に盃を置いて「一杯どうぞ、ぼたん鍋奉行さん」とお銚子を手にした。

「ふっ……ああ、猪のことについちゃな。ぼたんの刺青ぐらい、背負ってるつもりだもんさ」
いつの間にか、物欲しげな顔の男たちがぼたん鍋を囲んでいた。
「しょうがないわね~。今夜はマタギのぼたん鍋を、奮発しちゃおうかな」
真知子の声に、「待ってました~、女将さん!」「こいつぁ春から、あっ!縁起がいいなぁ~♪」と客席から呼び声がかかった。
「よっし! じゃあ俺も、鍋奉行やっかな!」
腕まくりする松村に、真知子が玉杓を手渡した。
「あんたは、アク代官がお似合い。さっさと、アク取りしなさいね~♪」
「へっ、そりゃないよ~」
ぼたん鍋の煮える音と湯気の中に、男たちの笑顔が揺れていた。