Vol.114 三日坊主

マチコの赤ちょうちん 第一一四話

客席に並ぶ赤い顔には、少しだけ正月気分が残っているようだった。
新年のマチコは、いつもどおり、帰省して久しぶりに逢った兄弟や親友の話題、家族サービスに疲れ果てた男たちのグチで始まっていた。
毎年それを耳にする日、真知子は窓から入りこんでくるツンとした冷気に鼻を突かれていたのだが、今年はそんな気配が感じられない。
思いもよらない暖冬で正月スキーをあきらめたのに、今頃になって雪が積りやがってとぼやくカウンターの客に、「私も、信州行きを中止しましてねぇ。息子がスネちゃって」と水野が苦笑いを返した。
「それじゃ、行った気分で、野沢菜と長野のお燗酒だ!」
水野と並んだ松村が、今日入ったばかりの純米酒を目ざとく冷蔵ケースに見つけ、真知子に注文した。
「これ、佐久の加瀬さんが送ってくれた、新酒なのよ」
真知子がうれしげに包装紙をめくると、松村の横に座っている青年が一瞬、顔をゆがめた。初顔の客だったが、冷酒はもう3杯目を飲んでいる。
「あら……このお酒、嫌い?」
真知子が問うと、気弱そうな男は「えっ、い、いや」と返事を濁したまま、冷酒グラスに口をつけた。そして、酒のラベルをもう一度見ると、気まずそうにうつむいた。
「あのさぁ……あんた、そんなにイヤならテーブル席に移ったら? チッ! せっかくの酒がマズくなるぜ」
男の表情を観察していた松村が、酔った勢いで声を荒げた。
その声に、男が居所を失くしたかのように「あ、あ、あの、お勘定を!」と慌てて腰を上げかけた。
「お客さん、帰らんでもよろしいで。こりゃ、和也! 正月早々、酒席のマナーがなっとらんのう。ほれ、わしからのお年玉 じゃ!」
ふいに、しゃがれた太い声がしたとたん、松村の頭にゲンコツが落ちた。
「痛ってて~!」
涙目になって振り向いた松村に、藍染めの羽織を着た津田が「がっははは、おめでとうさん!」と笑っていた。
かわるがわる客たちが挨拶する津田に圧倒されたのか、男は口をつぐんだまま席に座りこんだ。
「よっしゃ、ほんなら、あんさんの横に座らせてもらおか」
横幅のある津田と頑丈そうな松村に挟まれると、赤い顔の男はしなびたニンジンのようで、真知子は思わず「プッ!」と吹き出した。
「ご、ごめんなさいね。でも、とってもカワイイんだもん」
「ふむ。確かに、ひ弱そうやなぁ~♪ おっ、ちょっと手ぇ見せてみぃな」
津田は男の右手を取ると、メガネを押し上げて凝視した。
「こりゃ……酒造りしとる手や。わしの死んだ弟も灘でかけだしの頃、あんたみたいにパサパサの白い手ぇしとった。水仕事ばっかりやからなあ。 これが熟達して米麹をさわっとると、ツヤツヤした手に変わってくんねん」
すると、男は椅子から跳び上がり「す、すみません! すみません!」と手を合わせて津田に謝った。
「な、な、何なんだよ? どうなってんの、この人?」
松村は目をみはり、水野が口をあんぐりさせた。
どぎまぎとする真知子の前で、津田が腕組みしながら言った。
「あんた……蔵元から飛び出してきたんやろ」
男はしばらく黙っていたが、コクリとうなずいて「あの酒です」と長野の地酒を見つめた。
真知子も松村も、カウンターの客たちも、そのひと言で、男が視線をそむけたことに合点がいった。
「その手を見たら、2年か3年目ちゅうとこやな。まだまだ“追いまわし”、坊主扱いや。まぁ……“三日坊主”ちゅうことか」
津田の渋い声がしんとしたカウンターまわりに響くと、男はポツポツと話し出した。
名前は、新谷 宏。佐久の農家の長男で、祖父も父も蔵人だったこともあって、農業高校を卒業して家を継ぎ、冬の農閑期は酒造りで稼ぐことにした。
今年で、3年目だった。
「同期で入ったヤツらは、もう麹をさわっています。でも俺は、まだ半人前……昔から、何でもそうなんです。人よりノロマで、覚えが悪くって。だから、このままじゃ、ずっと追いまわしのままだと思って。……あの、その酒を持って来た加瀬さんって、佐久のガラス工房の?」
「そうよ……知ってるんだ」
消え入りそうな声の新谷に、真知子が答えた。 辛抱しきれなくなったのか、松村が新谷の背中を引っぱたいた。
「イジイジしてんじゃねえ! お前、“石の上にも三年”っての知らねえのかよ? やっとこさ、これからじゃねえか」
「ほう、和也君ええこと言うなぁ。その通りや、わしは長いこと料理人の世界におったけど、こっちの坊主時代もキツイんやで。けどなあ、それはいっぺんは経験せんとあかん修業場や。それが今は、何でも簡単になって、いつの間にやら下積みっちゅう言葉が死語になっとる。おかしな世の中じゃ。けど、酒造りの世界では、そうはいかん。新谷君、もういっぺん頑張ってみぃ」
津田がタバコにゆっくりと火を点けながら、柔らかなまなざしを新谷に向けた。

真知子が長野の酒を、空っぽの新谷のグラスに注いだ。
澄んだグラスの肌を流れ落ちるしずくに、新谷は「帰らせてくれるかな」とつぶやいた。
その時、カウンターの端っこから小さなビー玉が転がって、新谷の前に止まった。
「帰れるさ。俺が連れて帰ってやるよ、新ちゃん。蔵の親っさんが心配してるぜ。しっかし、驚いた! ここで見つかるとはねぇ。奇遇だよ」
「あっ……」
声の出ない新谷の耳元で、津田がささやいた。
「あの人かてな、佐久で人生やり直して、ガラス工房を始めてやっと3年。まだまだ、修行中や」
松村がその反対側から、新谷につぶやいた。
「それにさ、酒造りってのは、昔は寺の“坊主”がやってたんだぜ!」
いつにない松村のウンチクに、客たちが「ほうっ!」と感心した。
「まっ、あんたは会社の“茶坊主”にならないように、気をつけることよね~」
真知子のツッコミを包む笑いの中で、新酒の笑顔が揺れていた。