Vol.116 海苔巻き

マチコの赤ちょうちん 第一一六話

真知子の白い割烹着姿を包むように、店内が明るく色づいている。
トレンチコートを脱いで入って来た松村は、鼻先にうっすらと汗をにじませていた。そして「今夜は、冷酒にするよ」と注文しつつ、カウンター奥の花瓶に活けてある梅のつぼみに目を止めた。その紅い色に誘われるまま、隅の席に座った。
「もう、そんな頃……なわけ、ないよねぇ」
「やっぱり、あったか過ぎるのよ。でも、花屋さんに出てるのを見て、つい可愛いから買っちゃったの。お客さんも、喜んでるみたい」
酒をグラスに注ぎながら、真知子は目でテーブル席を指した。
新酒を味わっている男たちが、その赤い顔と似た梅のふくらみに表情をゆるめていた。どの卓にも、紅い小枝が飾られている。
松村が視線を手元に戻すと、ふきのとうのおひたしが置かれていた。
「何だか、すっかり春って感じだねぇ。俺、節分だってちゃんと迎えてないのに」
「あら!?今年も豆まきで、鬼の役やったんじゃないの?」
「徹夜仕事で、朝帰りになっちゃってさ……約束破ったって、カミサンは鬼嫁だった。おかげで、海苔巻きもかぶれずじまい。関西出身者としては、あれをやんないと気がすまないんだよねぇ。今年の恵方って、どっちだったのかなあ」
真知子の答える前に、玄関からしゃがれた声が飛んで来た。
「北北西やがな。和也君、今からでも遅うないでぇ~」
津田が、右手に提げている「勝寿司」の紙袋をぶらぶらさせた。
その後ろには、剃り上げた頭を光らせる年輩の男が立っている。
「わしの親友の勝ちゃんや。両国の外れで、小さな寿司屋をしとる。ここの海苔巻きは絶品でなぁ」
津田が紹介すると、男は真知子に「どうも」と素っ気ない挨拶をしてカウンター席に座った。
「この人、ヘンコな親爺でなあ。たまにはガミガミ言わんと、若い衆に店を任せたりっちゅうて、今日はわしが無理やり誘うたんや。真っちゃん、さっそくこの太巻き、皆さんに切ってあげてんか」
袋を受け取った真知子は「どうも、ごちそうさまです」とほほ笑んだ。
勝はそれに応えず、津田へ言葉を返した。
「ツーさんよ。ガミガミ言えなくなりゃ、寿司屋なんてたたんじまうよ。職人は若ぇ時に叱られて、なんぼのもんだ。特に、俺っちみてえに腕が鈍くって端っこにいるばかりだった若僧は、心を鍛えられたから続いたようなもんよ。人の気持ちを分かる歳にならなきゃ、てめえの店を持つなんて簡単には叶わなかったぜ」
手入れの行き届いた白木のカウンターを見ながら、勝は「ふんっ」と鼻息を吐いた。
その語尾としぐさが、松村にはどことなく嫌味に思えた。若い女が、こんな店を持つなんて……そんな声が、聞こえるようだった。
真知子は、勝が自分を避けていることを感じ取っていた。だが、津田がそんな彼の人となりを承知の上で連れて来たことも、察しているのだった。
まな板風の皿の上に、真知子の切った海苔巻きが盛られた。それがカウンターに置かれると、勝は「うむっ!」と唸った。
ハッとした松村は、一瞬、津田がテーブル席へ配りに行く真知子に、ニヤリと片目をつぶったのに気づいた。
「あの女将……なかなか、分かってるじゃねえか」
今しがたの渋い面が嘘のように、勝の目尻はほころんだ。
「そやから、ここへ勝ちゃんを連れて来たわけや」と、津田がようやくお銚子を勝に差し出した。
「な、な、何だよ?ねえ、津田さん?俺、わけが分かんないよ」
うろたえる松村は席から立つと、海苔巻きを覗き込んだ。
海苔巻きは、幾分、両端が分厚く切られていた。
「お客さん、あんたが子どもの頃に食ってた海苔巻きって、どこから食べたかったね?」
勝が嬉しそうに盃をなめつつ、松村に訊いた。
「あっ、端っこだ!」
松村が答えると、津田が右端の太い寿司をつまみながら言った。
「海苔巻きを寿司屋で食うっちゅうのは、今のご時世、少ないやろ。コンビニだのスーパーだの、どこにでもあるしな。けど、ほとんどは均等に切れてるねん。あれは、どっか味気ないんやなぁ。太い端っこから食いたなるんが、人の気持ちやろ。それを、今の若い職人は知らんちゅうて、勝ちゃんはガミガミ言う。けどなぁ、若い人の中にかて、端っこ派はおる。そいつらかて、自分の心は自分で鍛えとるはずや。なぁ、真っちゃん」
津田の言葉に、戻って来た真知子が左端の海苔巻きを取った。
「私もマチコも、世の中の端っこにいる若僧だけど、しっかり生きてますよ」
すると、テーブル席から男たちの楽しげな声がした。
「俺たちも、会社の端っこで頑張ってますよ~♪」
「ツーさん……すまねえ。相変わらず、俺っちはやっぱり、人としては不器用みたいだよ」
「……少々不器用なぐらいがええ。ええ味があって、わしは好きやで」
勝と津田は一緒に海苔巻きをつまんで、盃を合わせた。

「俺、それ1本もらって帰ったら、丸かぶりは止めて、切って食べようっと。カミさんと、仲直りできそうだしぃ」
松村も嬉しそうに寿司をつまんで、冷酒を飲み干した。
「あ~ら、残念ねぇ。もう、テーブルのお客さんに出しちゃったわ。だいたい、いつも端っこに座って、冷蔵ケースのいろんなお酒を眺められる幸せって、和也君は分かってないし。そう言えば、あんたの家の方角って、南南東ね。恵方の反対って、凶方じゃないの?さっさと帰らないと、鬼嫁が復活しちゃうかもよ」
思わず松村が海苔巻きをノドに詰まらせると、マチコは爆笑に包まれていた。