Vol.117 おふくろカレー

マチコの赤ちょうちん 第一一七話

まっ白に咲いた雪柳の植え込みを、ぬるんだ夜風が揺らせていた。
それに目を移しながらマチコへ向かう松村の後ろで、現場帰りらしい工事作業員たちが「腹へったぁ~、メシ!メシ!」「ビール、飲みてぇ~」と口々にぼやいている。
格子戸を松村が開けると、彼らの中の一人が「ここ、よさげじゃん」とマチコの中をちらと覗いた。
「扉、開けておきますね」
松村がそう言ってカウンターに腰を下ろすや、男たちはそのままドヤドヤと流れ込んで来た。
「お~、こ、こんなにいたんだ!」
いっきに増えた8人の客に、松村は真知子を手伝うべく「8名なら、奥の小座敷で、皆さん一緒に座れますよ」と声をかけた。
「全部で9人だよ。あれぇ?サブの野郎が、いねえじゃねえか。さっきまで、いたんだろう?」
作業員たちを率いているらしい年輩の男が、禿げた額をてからせながら仲間へ振り向いた。
「あっ!あいつ、また弁当を残したんじゃないですか。残して帰ると、おふくろさんに叱られるんだそうですよ。どっか、その辺で、食ってんじゃない。アッハハハ!あっ、とりあえずビール、大至急ね。それと、肴は……」
せわしなく真知子に注文する男を、口の軽そうな奴だなと松村は思った。
「三郎ってさ、ランチジャー使ってんだろ。今どき、信じられねえよなぁ」
「おふくろさんが『冷えた弁当は、お腹に良くない』って、持たすんだとさ。コンビニ行ったこと、ねぇんじゃない?あいつのおふくろって、化石みたいな婆さんだったりしてね。ウッフフフ!」
若い作業員たちの中傷を聞き流しつつ、真知子はチラと格子戸の外に目をやった。
そして、玄関から顔を出した。
「どうぞ、入って下さいな。中でお弁当を召し上がって、けっこうですよ」
弁当を残すぐらいだから、小柄な痩せぎすの男かと松村は想像していたが、遠慮気味に入って来たのは、意外にコロコロ太った若者だった。
その手が、時代遅れのランチジャーをぶら提げていた。
「やっぱり、食ってやがった。お前は未成年だから酒を飲んじゃいけねえんだし、いなくたっていいんだぜ。とっとと帰って、母ちゃんのオッパイでも飲んでろ」
口軽男が皮肉ると、笑いが巻き起こった。
「健、もうそれぐらいにしといてやれ。サブ、そこへ座れ」
年輩の男が顎を振ると、三郎は「はい……すみません」とランチジャーをテーブルに置いた。
ビールと冷酒、料理が運ばれると、三郎もランチジャーを開け直して食べ始めた。しかし、箸の動きは遅く、口元がまずそうにゆがんでいた。
「何だよ、三郎。しっかり食べなきゃ、ダメじゃないかぁ~。おっかさんに叱られるぞぅ」
冷やかす健に、三郎は「おかずが、嫌いな野菜ばっかりで……でも、おふくろは、『ブクブク太るのは、野菜を食べないからだ』って、こうするんです。あ~、イヤだ。でも、もったいないしなぁ」
作業員たちが笑いをこらえると、三郎はバツ悪そうにうつむいた。
「それじゃあ、お母さんの料理で、何が一番お好きかしら?」
そう問いかけた真知子に、作業員たちがはっとして顔を向けた。
「あっ、あの……カレーライスです」 三郎が赤面しながら答えると、真知子はコクリとうなずいて厨房に引き上げた。
「やっぱ、お子ちゃまだねぇ」
健のつぶやきが、またも笑いを誘って、酒宴は始まった。だが、松村が何回視線を向けても、三郎はランチジャーとにらめっこしたままだった。
「何か、情けねえけど……ちょっと、かわいそうだね」
厨房にいる真知子の背中に、冷酒をなめる松村がつぶやいた時、カレーの匂いが漂ってきた。
「おっ、カレーの匂いじゃない?お前、あの女将にも心配されてんだな。母性本能をくすぐるタイプか?ニクイねえ」
健の言葉に三郎がどぎまぎしていると、真知子がカレーのルーを入れた器を運んで来た。
「誰にだって、好き嫌いはあるんだし、あなたは成長期なんだから、これからいくらでも偏食を直すチャンスはあるわ。こんなふうに、カレーと一緒なら、苦手な野菜も食べられるでしょ。それにね、もったいないって思う気持ちは、これからの時代、大切ね。大人になって、お母さんを思い出す時、カレーの匂いをかいだら、いつもあなたを心配してくれたことを、人一倍、実感できるはずよ」
真知子の言葉に、三郎は小さくうなずいて、野菜にルーをかけた。
その美味しそうな匂いに、若い作業員たちがゴクリとつばを呑んだ。
「カレーってさ、肝臓にもいいんだよ。ターメリック、つまり“うこん”なの。この女将さんのカレーは、ターメリックたっぷりだから、明日の朝が楽だよ~♪僕は、いつも食べるもんねぇ」

松村が聞こえよがしに言うと、「あっ、あの、僕らにも、もらえませんか?」と若い男たちがおもねった。
「な、な、何だよ……お前らも、お子ちゃまかよ。け、けど、本当にうまそうな匂いだなぁ。おい、三郎。ちぃっと食わせろよ」
健が手を伸ばすと、三郎が器を抱え込んで、言い返した。
「健さんは、母性本能をくすぐらないタイプだから、やめといた方がいいです」
「なっ、なっ、何ぉ、この野郎!」
「あははは!こりゃ、サブの逆転勝ちだな」
赤面する健を、年輩の男が冷やかした。
“してやったり!”と目で合図する真知子と松村を、カレーの匂いと笑い声が包んでいた。