Vol.121 笹舟

マチコの赤ちょうちん 第一二一話

サラサラ…サラ…と、公園脇の竹林が心地よさげにささやいていた。
夜風にあおられた笹の葉がひとひら、松村の肩に舞い落ちた。それを手にすると、松村はふっと微笑んで「今日も……おつかれさま」とつぶやいた。
その鮮やかな緑色が、通りに残る陽だまりの匂いとあいまって、松村は懐かしい子どもの頃を思い出した。
「よく作ったよなぁ……笹舟」
独りごちつつマチコの戸を開けると、眼鏡のずれた津田の赤ら顔が、カウンター席で笑っていた。隣で、宮部と澤井が冷酒グラスを傾け合っている。
「おお!待ってたで。ほれっ!こないだ約束したもん、持って来たったでぇ」
津田は、松村が座るのも待てずに、気ぜわしく紺色の風呂敷を開いた。
そこには、錦模様の小さな鯉のぼりが包まれていた。
染めの色はしっとりと深く、ナイロンや紙製の安物と比べようもないほど上等に見えた。
「ほっ、本当に、これ戴いてもいいんですか~!?」
小躍りする松村に、真知子が苦笑した。
「もう、子どもみたいね。あんたが、もらうんじゃないでしょう?元気君にあげるんでしょ」
松村の息子・元気は、2歳半。可愛い盛りの写真を先週見せられた津田が、マンション住まいで鯉のぼりが立てられないとぼやく松村に、「よっしゃ!ほんならわしが、ええのをプレゼントしたろ」と約束したのだった。
「それ、年代物みたいですねえ。生地も色もしっかりしてるし、丈夫そうだ」
澤井の声にカウンターの男たちも、「どれどれ?」と首を伸ばした。
「むっふふ。これは、わしが子どもの頃に作られた鯉のぼりや。50年以上になるが、皺一つあらへん。立派なもんやろ。ちゃんと手入れはしてあったさかいにな。ちょっと防虫剤臭いが、それぐらいは辛抱しいや」
津田はご満悦のようすで、髭をなで上げた。
「ほっ、ほっ、ほ~ら、あれぐらいの、大きさのを、買ってやれよぉ~」
ふいに、カウンターの奥から酔っ払った声がした。
「いいよっ!もったいないだろ。うちのマンションはベランダが狭いし、手作りの紙の鯉のぼりでいいんだよ!それよか親父、飲み過ぎじゃん。まったく、酔うとしつこいんだから。悪いけど、俺、先に帰るわ。子ども、風呂に入れなきゃいけないし」
うとましげに立ち上がった若者は、すがる年配の男をふり払って出て行った。鼻息の荒い白髪混じりの男は、一万円札を握ったままため息をつくと、しばらくうつむいていた。
常連客たちが顔を見合わせ、黙り込む中に、澤井の声が聞こえた。
「あのぅ~、今の人、息子さんでしょ?……察しがつきますよ」
「いやっ、あははっ……な、な、何とも、お恥ずかしいです。私は、あんなふうに、あ、あしらわれる、ダメ親父なんですよ」
男は金をクシャクシャに握りつぶすと、バツが悪そうにおしぼりで真っ赤な顔を拭いた。
「子どもを風呂に入れるのと、酔いつぶれた親父の面倒みるのと……どっちを選ぶかねぇ。今の若い父親は、自分には分かんないよ。和也君だったら、どうする?」
宮部は、空になったグラスを目の前でかざしつつ、顔をしかめた。
「う~ん、子どもを風呂に入れるのは、現代の父親の役目だもんなぁ。あっ、俺は毎日じゃないっすよ」
どぎまぎと答える松村に、津田が「言い訳は、無用じゃ」とタバコの煙を吐きつけた。
「……わ、私もそうすべきだったと、ヒック!最近になって思うんです」
男は盃を飲み干すと、山下と名乗った。3年前に会社を定年退職し、一人息子もその年に結婚。翌年明けに初孫が誕生したが、窮屈な一戸建てに同居していた息子夫婦はマンションへ越して行ったのだと打ち明けた。
「そりゃ、鯉のぼりを口実にしてでも、お孫さんの顔、見たいですよねぇ」
澤井はそう言って、津田に同意を求めた。だが、津田は黙ってタバコをくゆらせていた。
「孫の顔が見たいだけじゃないんです。若い頃の私は、まったく家をかえりみない父親でしてねぇ。馬車馬みたいに働いて、飲んで……私の父もそうでした。飲んでばっかりだから、鯉のぼりだの五月人形だの、買う金なんて無くて。ヒック!毎年、カミさんが紙で作ってましたよ。息子には辛い思いをさせたなと、今頃になってあいつと語りたい、孫だけじゃなくて、息子もたまには抱きしめてもみたい、そ、そんな気になるんです。ヒック!でもねぇ、今さらできなくて」
頬杖をしてつぶやく男の前に、真知子が冷たい水を置いた。
「……家族のかたちって、いつの時代だって、いろいろですよ。辛抱と節約のできる息子さんに育って、良かったじゃないですか」
「私がせいぜいできたのは、新聞紙で兜を折ってやるぐらいでした。だから、孫にはせめて……」
山下の声が途切れると、澤井も真知子も押し黙った。
「息子さん……ちゃんと、親の人生と苦労を分かってはりまっせ。ただ、あんさんが、その本心を、息子に恥ずかしがらんと見せることですな」
「ええ……それが、どうも難しくて」
すると、山下の水のグラスに、すいっと小さな緑色の物が浮かんだ。

「これ、作れます?」
山下が顔を上げると、松村が笑っていた。
「笹舟か、懐かしいですなぁ。この季節になると、休日に息子と作った憶えがあります」
「だから、これですよ……あなたの息子さんにも、お孫さんにも、買った鯉のぼりは必要ないんです」
はっとする山下に、松村が続けた。
「うちの息子も、お孫さんと同じぐらいです。そして、うちも、頂き物の鯉のぼりですよ」
もらった鯉のぼりを手にする松村に、津田が目尻をほころばせて言った。
「笹舟の作り方も、ちゃんと教えたりや」
二人の言葉を聞く山下の指が、水に浮んだ笹舟をやさしく押していた。