Vol.120 あぶら菜

マチコの赤ちょうちん 第一二〇話

花冷えする夜が戻ったせいか、マチコではお燗酒の注文が盛り返していた。
この時期、冷えた生酒を好む松村も「お花見で、風邪引いちゃってさ」と熱燗を頼み、その横では澤井が豆腐鍋をつついている。
菜の花や新ワカメの入った小鍋が湯気を立て、やって来る客たちは、「おっ!春だねぇ。こっちも、それがいいな」とつられて注文するのだった。
ついさっきカウンターの奥に座った老夫婦も、ひとしきり料理を注文した後で、ちらと小鍋を一瞥し、妻の方が気にしているようすだった。
「そんなに、食べれないだろう?」と答える主人に妻がせがんで、小鍋を一つ注文した。
「ふ~ん、菜の花の入った豆腐鍋なんて、俺、初めてだな」
鼻をすすり上げる澤井の顔は、赤く上気している。
「春の匂いがふんわ~りと……なかなか贅沢すねぇ」
松村が鍋に顔を近づけ鼻をクンクンさせると、「しっ!しっ!ばっち~い風邪の菌が入るじゃねえかよ!」と澤井が頭を小突いた。
カウンターのあちらこちらで、小鍋が小気味よい音を立て始めた。
「ちなみに真知子さん、菜の花って、どこでも売ってるの?」
端っこに座る宮部が、花瓶に活けてある菜の花を触りながら訊ねた。
「スーパーなら、たいていあるはず。でも、これは宮崎の実家から送って来た、正真正銘の野草よ。実家の裏にきれいな小川が流れてて、春は土手に菜の花がいっぱい咲くの。一面 、黄色い絨毯みたいよ」
「へえ~、だから香りも強くって、茎もしっかりしてるんだ。滋養たっぷりってことだな。真知子さんの故郷って、小林市だったっけ。そこって、自然がいっぱいありそうだね」
澤井の声に、出来上がった豆腐鍋を取り分けていた老夫婦の主人がハッとして、手にするれんげを止めた。妻は、しばし真知子の横顔を見つめていたが、おずおずしながら口を開いた。
「あの……そこって、岩瀬川じゃないかしら」
「えっ!?ええ、そうです……よく、ご存知ですねぇ。でも、どうして……」
真知子の向こうで、澤井や松村も、不思議そうな表情を浮かべていた。
「……つい先日、小林市に行く用事がありましてね。岩瀬川の堤を、歩いてきたんです」
主人が、はにかむような顔を見せた。
「まあ~!そうなんですか♪奇遇ですねえ。小林市って、あまり知られてないんですよ」
声高になった真知子は、子どもの頃の岩瀬川の思い出や実家のことを主人に語った。いつにないその言動に客たちは驚きの顔を見せたが、妻の寂しげな瞳は鍋の菜の花を見つめたままだった。
「あっ……ごめんなさい。つい嬉しくて。うるさかったですよね」
詫びる真知子に主人は皺深い笑顔をこぼして、「いやいや、私たちも嬉しいですよ」と気遣った。
「……やっぱり断りましょうよ、あなた。私、由美とめったに会えなくなるって思うと……」
唐突に、妻がポツリとつぶやいた。傷心したかのように、細い肩が震えていた。
「またか。いいかげんにしろ、もう決まったことじゃないか。由美はとっくに納得してるのに……お前がいつまでも悩んで、どうするんだ!飛行機に乗れば、宮崎まですぐじゃないか!」
「でも、お見合いさせたのは、あなたじゃないですか。由美本人の意思じゃなかったでしょう?きっと、あの子は悩んでますよ。顔は笑ってても、心の中じゃで泣いてます!どうして、こんな遠くへ嫁に行くのかって」
しだいに険悪なムードになっていく夫婦に、男たちが固唾を呑むように静まった。
「あの、差し出がましいようですけど……お嬢さん、小林に嫁がれるんですね」
一転して、真知子の声も落ち着いていた。
「はぁ……見苦しいことで、すみません。母親ってのは、いつまでも子どもが、子どもの頃のままでして」
主人は村田と名乗って、娘の事情をかいつまんで真知子に打ち明けた。娘は、小林市に住む主人の恩師の息子と見合し、縁談がまとまり、結納の日取りも含めて小林に出向いたのだった。
鍋の白い湯気の中に、頬杖をつく村田の白髪がとけこんでいた。真知子は、村田の雰囲気が、どことなく実家の父に似ていると思った。
「小林って、どんな町なんですか?暮らしにくいの?生活習慣とか、風習とか、ややこしいことはあるの?」
不安をあらわにするかのように村田の妻は口早に続けると、顔を両手で覆った。
「ちょ、ちょっと、お母さん、落ち着いてよ」
松村が中腰になって妻を諌めると、澤井が憮然とした表情を浮かべた。
「あの……お言葉ですが、自分の故郷を悪く言う人って、少ないんじゃないですか?それって、愚問だと思いますけどね」
「澤井さんっ、口が過ぎるわよ。その気持ち、母親でなきゃ分からないものだと、私は思うわ。みんなのお母さんだって、そうだったはず」
真知子の一声に、カウンターの面々が目をつぶり、表情を引き締めた。
「あの……これ、食べてみてくださいな」
うつむいたままの村田夫婦に、真知子が小さな器を差し出した。
小鉢には緑色のおひたしが盛られ、黄色い花びらがさりげなく散っていた。

「菜の花のおひたし……これも、岩瀬川の?」
涙の跡を見せながら、妻が真知子に訊いた。
「ええ……小林では“あぶら菜”って、呼びます。昔のままの田舎料理だけど、真心がこもってる家庭料理なんですよ」
村田夫婦は、ゆっくりと、あぶら菜に箸をつけた。
「ほろ苦いけど……甘くて、優しい味」
妻の言葉に、真知子がつぶやいた。
「それ、亡くなった母に教えてもらったんです。小林に嫁入りした私の母は、『素朴で何もないけど、ここに暮らせて、幸せ』って、いつも言ってました」
松村と澤井が、ふっと微笑んで、顔を見合わせた。
カウンターに咲く黄色いあぶら菜の花が、村田夫妻の瞳の中で揺れていた。