Vol.125 たたき

マチコの赤ちょうちん 第一二五話

しぶきを跳ね上げる豪雨が、黄昏色を帯びていた通りを灰色に塗りつぶした。
さっきまで聞こえていたバイクのエンジン音も、カラスの鳴き声も、激しい水煙の中へ吸い込まれている。
「ひっでえなあ。アマゾンのジャングルじゃあるまいし、どうなってんだ?」
その澤井の声も、マチコの軒を叩く大粒の雨音に消されそうになった。
「また、し、渋谷あたりで、洪水になるんじゃないのぉ、ウイッ」
酔って冗談めかした松村を脅すかのように、突然、大きな雷が窓ガラスを震わせた。
「わわっ、近い!落ちたぞぉ!」
こりゃ~、当分帰れそうにねえな!」
客たちの声は、にわかに高ぶっていった。しだいに膨らんでいく雨音と雷鳴に、カウンターの中の真知子が「うるさ~い」と耳をふさいだ。
その向かい側で夕刊に目を落としながら燗酒を傾けていた津田も、ティッシュペーパーを丸めて、両耳に突っ込んだ。
松村と澤井はお互いの声が聞こえにくいのか、顔をしかめて声高に言い合っている。
ところが、そんな状況の中でも、何食わぬ顔で会話をする二人の男がカウンターの端に座っていた。
六十がらみの白髪の年配者に、いちいち頭を下げて盃を受ける中年の男。
二人とも苦み走った日焼け顔で、カツオのたたきをつまみながら、熱燗をくいっと飲んでは、周囲の慌てぶりに失笑すら見せていた。
もっと変わっていたのは、彼らがカツオを食べるのにマヨネーズをくれないかと頼んだことだった。
そんな彼らに、真知子は職人の師弟のような雰囲気を感じていた。
二発目の雷鳴が轟いた直後、格子戸が開いて、濡れそぼった若い男が飛び込んで来た。
「おう、順平。こっちだよ」
カウンターの中年男は右手で若者を手招くと、左手で空っぽになったお銚子を振って「すぐに熱いのをつけてくれ。それと、カツオを追加だ」と真知子に催促した。
賑やかな店のせいで、それは、真知子がどうにか聞き取れるほどだった。
「あっ!アツアツの飯もおくれ」
カウンターに歩み寄った若い男はそう付け足すと、ほとびた髪をさっと掻き上げた。すると、雨の飛沫が松村のグラスに飛び込み、津田の夕刊にシミを作った。
しかし、順平と呼ばれた若者は気づかず、仲間の真ん中へ嬉しそうに座った。
「おっ、おいおい!そりゃぁ、ないだろ。あんた、謝れよ!」
「うん?何でぇ。お前、何かやらかしたのか?」
中年の男が、松村にしかめっ面を投げながら、順平に訊いた。
「い、いや、俺、何もやってないっすよ、吾一の兄貴。おう、てめえ!変な言いがかり、つけてんじゃねえぞ」
順平は濡れて肌にへばりついたTシャツを腕まくりすると、松村を睨み返した。褐色のひじ周りは、松村の倍ほども太かった。
それを見るや鼻息を荒げ、ネクタイを緩める松村を、澤井が「よせ!話せば分かるよ」と押さえつけた。
その時バサッと、白いタオルが順平の前に垂れ下がった。
「はいはい!水のしたたるイイ男でも、ウチに座るんだったら、まずは身ぎれいにしてからよ。それができなきゃ、お帰りはあちら!」
久々にマチコの“鶴のひと声”が響くと、客たちが一瞬にして静まった。いくぶん小降りになった雨音だけが、店内に満ちていた。
「うっ……分かってらぁ。けどよ、俺は何もやってねえぞ!」
順平は、タオルを無造作にむしり取った。
その態度が気に食わない松村は、「やったんだよ!」と声を張り上げた。
またもや火種が点きそうになると、今度は津田が、シミのついた夕刊をバサッと順平の前に開いた。
「あんさんの飛ばした、しずく。ほかのお客さんにも、かかってるで……それに、そない大声出してるうちは、一人前の漁師にはなれんぞ」
「な、な……」
言葉を失くす順平の横で、吾一という男は目を白黒させていた。
黙ったままだった白髪の男がふいに立ち上がって、誰とはなくカウンターの客たちに深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。わしは、こいつの親方です。わしから、きっちりと詫びを入れさせてもらいます」
しゃがれた響きの声に、今度は松村たちが気おされたように黙った。それは、さっきまでのごく普通の声の主と別人のようだった。
「さすが、船長さん……でっしゃろ?」
「いやいや、あんたの眼力には恐れ入りました」
津田の言葉に男は好々爺のような笑顔を見せて、湊一徹と名乗った。
三人は千葉勝浦のカツオ漁師で、休日を利用して築地に見学に来た帰りだと言った。
素性が分かると気分もほぐれたのか、澤井が気恥ずかしげに口を開いた。
「だけど津田さん、どうしてカツオ漁師って、分かったの?」
「湊さんの年齢で、カツオを食うのにマヨネーズ使うのは、叩き上げの漁師の証しや。カツオ船の上は、いつも戦場。のんびり飯なんて食うてられへん。おかずは、釣りたてのカツオの切り身だけや。それに醤油とマヨネーズぶっかけて、飯と一緒にわっしわっしと呑み込むように食う。それが、カツオ漁師の元気も素や。それと、吾一さんの指。あんた、機関士やな。爪先に機械油が染みこんで、真っ黒や」
聞きながら苦笑する湊の横で、吾一が思わず指を握りしめた。
「じゃ、じゃあ、俺がどうして新米って、分かったんだよ!?」
大先輩たちが叶わない津田に、順平が悔しそうな声を返した。
「あんた『アツアツの飯も、おくれ』って言うたやろ。日頃は船で下っ端やから、炊きたての飯なんて食えん。いわゆる、“冷や飯食い”や。そやから、あんな言葉が出るんやろ?」
「あっははは!順平、図星じゃねえか」
順平の背中を叩いて爆笑する吾一に、思わず周りの客たちもどっと笑った。
茹で上がったように赤面し、ふくれっ面をする順平に、真知子が言った。
「でもねぇ、順平君も、吾一さんも、湊さんもスゴイ!だって、さっきの大雨にも動揺しないで、普通に話してるんだもの。きっと、雨の中のカツオ漁で鍛えてるからね。大声出さなくても、気持ちで通じちゃうの?」
「……ああ、そうさ。雨に濡れたカッパのままでも、甲板で寝れるぜ。それがカツオ漁師さ」
順平は自慢げに答え、鼻水をすすり上げた。
「まぁ、お前は、まだそれしかできねえけどよ」
そう言って茶化した吾一をふと見れば、澤井の隣に席を変わって、お互いに盃を交わしている。
「……あんたがこの場を仕切った途端、険しい空気がすっと消えちまった。さすが、一流の料理人ですなぁ。それに、あの女将ですよ」
湊のつぶやきに、「分かってはったか……いやいや、あんさんもお目が高いですなあ。あれが、真知子さんです」と津田が顔をほころばせた。
「そのカツオのたたき……塩で食うなんざ、ツウだね。それに、分厚い切り身も、料理人のこだわりだ」
褒め上げる湊に、津田が「お互い、叩き上げ同士ですなぁ」とお銚子を傾けた。
酔いの醒めてきた松村は、独りで盃をあおる順平に歩み寄り、一杯おごらせろと笑っていた。

湊が、ポツリとつぶやいた。
「不思議な店ですねぇ。実は……私の船は“マチコ丸”でしてね。偶然、ここの前を通りかかって、それで入ったんです……私の妻は、万千子って書きますけどね」
それを耳にした真知子が、ふっとほほ笑んで、湊にお酌をした。
「奥さん、ベッピンさんでっしゃろなぁ」
津田が、わざとらしく真知子に笑った。
「ええ……真知子さんと同じで、たたき上げの美人ですよ」
その湊の声が客たちに聞こえるほど、いつしか雨は上がっていた。