Vol.126 車海老

マチコの赤ちょうちん 第一二六話

夏の神様にそっぽを向かれたのか、いっこうに梅雨は明けそうにない毎日だった。濡れそぼる夕刻の通りでは、御中元を配達する宅配便トラックがしぶきを跳ね上げ、サラリーマンたちはそれをうとましげな顔でよけて行く。
「まったく、忙しいのは分かっけどよ。もうちょっと、おとなしく走れってんだよ」
濡れたズボンの裾をくるぶしまでたくし上げ、松村がぼやきながらマチコに入って来た。
一瞬、カウンターに座る面々は玄関に視線を集めたが、「な~んだ、和也か」と声音を落とした。
「な、何だよぅ……ご挨拶だな」
すると、顔をしかめる松村の後ろから、「宅配便で~す」と軽快な声が飛んだ。
「おお~♪やっと来よったか!」
カウンターの端に座っていた津田は松村を押しのけると、奪い取るように運送店の若い男から段ボール箱を受け取った。そして、そそくさと厨房へ入り、脇目もふらず調理を始めた。
「……あっ!今日は何か、ごちそうがあるんだ!?ねえ教えてよ、ねえ」
気合が入っている津田と、厨房を任せきりの真知子のようすに、松村はピンときた。
「うるせぇなぁ……それが分かんねえから、俺たちも、ずっと物欲しげに座ってんだよ。夏の四国のごちそうってことしか、津田さんは教えてくんないの!だから、首を長~くして待ってたんだよ。宅配便ちゃんを!」
腹が減ってイラついているのか、香川の地酒を飲む澤井が聞こえよがしに答えた。
「……あっ、すみません。道路渋滞で、お届けが遅くなっちゃいまして。クール便だから急がなきゃと思って、抜け道も走ったんですが……」
言い訳する若い男は、汗のしみた制帽を取って澤井にチョコンと頭を下げた。
「ところでさ、あれ、何なの?え~と、川田さん」
松村は、男の胸にある名札をしげしげと見つめて、訊ねた。
「あっ!商品内容を見忘れてる……確かめる前に、あの方にお渡ししちゃって。それと、受け取りサインも、まだ頂いてないっすよね……あ~、また、やっちまったなぁ」
川田はよほどショックなのか、ガックリと肩を落としてうなだれた。どことなく顔も蒼ざめている。
「あらら……何だか、頼りない配送屋さんねぇ。ほら、ちょっと。そこに座んなさいよ」
真知子は、津田の隣の席に川田を座らせた。
「……おいおい。大丈夫なの、荷物の配達は」
怪訝な表情の澤井に、真知子は「こんな顔色で慌てて行ったら、事故するわよ。ひと休みも仕事のうち。5分ぐらいイイじゃないの」とほほ笑んで、熱い番茶を川田に差し出した。
「すみません……頂きます」と茶碗を手にした川田は、東京の道にまだ慣れていないのだと問わず語った。
四国の香川県から出てきて1年。あれこれとアルバイトを変え、ようやく宅配便の契約社員になったが、根っからの田舎者気質でノンビリ屋のためか、忙しい宅配便は性に合っていないのかもと愚痴をこぼした。
「それは、ちゃうでぇ。あんさんは真面目で、一生懸命やってるからこそ、焦ってまうねん。そやから、慌てんと、落ち着いて、ちょっと気を働かしてみるこっちゃ。例えば、さっきの荷物の中身かって……ほれ、あんさんの指、見てみいな」
仕上げを終えたのか、津田が厨房からぬっと顔を覗かせて、川田の指先に視線を向けた。澤井と松村は小首をかしげ、顔を見合わせた。
「あっ!そ、そうか、車海老だ」
指を立てたまま川田が答えると、真っ赤な縞模様のおおぶりの車海老が、カウンターの客たちの前に現れた。
薄くひと塩して炙った身が、プリップリに盛り上がっている。
「ねえ、どうして分かったの?」
車海老を配る真知子が、川田に訊いた。
「この指先に付いてるの、箱からこぼれたオガクズです。天然の車海老って、オガクズの中に入れて送るんですよ。そうすると、箱の中の熱が冷めずに、海老は呼吸もできる。さっき、香川県のごちそうって聞いたから、はっと思い出したんです。僕が子どもの頃、親父はそうやって車海老を送ってました」

ほう~と感心する客の声が重なったかと思うと、待ち切れない澤井たちは車海老にむしゃぶりつき、冷酒をうまそうに飲み始めた。
「不思議ですよね……一瞬、オガクズから、瀬戸内の潮の匂いもしてきたんです」
客たちのようすを見ながらつぶやく川田に、津田が串に刺した車海老を渡した。
「わしらには、美味しいだけの車海老やけど、あんさんにとってはもっと価値のあるもんや……人生は、ささいな物に、助けてもらう時がぎょうさんある。またそこに、生きる楽しみも生まれるわけやな」
川田は、津田におじぎを返すと車海老をくわえた。
そして、真知子たちの笑顔に送り出されるように、玄関を飛び出して行った。