Vol.133 かしわで

マチコの赤ちょうちん 第一三三話

甘い泣き声をからませる野良猫のつがいが、ダダダッ!と勢いつけてやって来るオートカブに邪魔されて、マチコの隣の垣根を跳ね上がった。
エンジンを切った宮部は、荷台のプラ箱から酒瓶を抜き取ると、マチコに駆け込んだ。いつになく慌てている。
「お~、来た!来た!新酒様のおな~り~」
澤井の呼び声に、今年一番の搾りたて新酒を待ちわびていた面々から拍手が巻き起こった。
「はっ、はっ、早く~、飲みてぇ!!」
「アホ!まずは、神棚にお供えしてからや」
ノドを鳴らし鼻息を荒げる松村の首を、津田はムンズと掴んで座らせると、マチコの店奥にある神棚を目で指した。
目立たない場所にあるが、真知子が毎日、玉串と御神酒を供えて、清めている。
「じゃあ、みんなで感謝しましょ」
真知子はポンッと小気味よい音で瓶を開けると、白磁のお銚子にトクトクと注いだ。それを神棚に上げると、店内の客たちも棚の下に集まって手を2つ打ち、それぞれに盃を傾けた。
「うっま~!」「香りがフルーティーだねぇ」と感嘆する客たちの中、ずっと手を合わせて、言葉をつぶやいている男がいた。
「……やけに、神妙だね。お酒の関係の人かな」
澤井の声に、宮部と松村も視線を向けた。
「いえ、ちがいます」
はにかむように答える男は、盃を口にする前にも手を合わせ「いただきます」とゆっくり言った。
その神妙な口調が、その場の空気をいっそう清めた。
「ふむ……あんさん、ええ姿勢ですな。なんかこう、やんごとなき雰囲気をお持ちでんな」
津田が鼻先の眼鏡をつっと押し上げながら、男にほほ笑んだ。
「……祖父の代まで、ある神社の禰宜をいたしておりました。もう私は、御縁がありませんが、子どもの頃から、あれこれ躾けられてましたので……」
はにかんだ男の白いうりざね顔は、歌舞伎の女形のように上品だった。
「あらぁ~、ありがたいお客様だわ。それに、とってもイイ男だし。一杯、注がせてもらおうかしら」
真知子が、盃の空いた松村に注ぎかけていた酒瓶を、ふいに男に傾けた。
「ちぇっ!そりゃ~ないよ」
ふてくされる松村は、神棚の御下がり物の干しするめを肴にしようと、手荒にちぎった。
途端に、男が顔色を変えて言った。
「あっ!いけませんよ」
「何が!?食べていいんだろ、御下がりなんだから。それに、スルメはちぎってそのまま食うのが、うまいんだよ。あんたみたいな御上品な人には分からないだろうけどね。こっちは代々、庶民だから」
皮肉混じりに答える松村に、「バカ!神棚の前で、くだらないこと言ってるんじゃないの。バチが当たるわよ」
たしなめる真知子は、するめを取り上げた。それを「おっ!いっただき~」と、澤井が口に放り込んだ。
「あっ、あの……それが、いけないんですよ。食べてもいいんですけど、ちゃんと手を合わせてから頂くのが、自然の恵みへの感謝なんです」
笑みを浮かべる男に、澤井は赤面しつつ応えた。
「あっ!いただきますね。ご、ごめんなさい」
男は、「後先になりました」と真知子におじぎし、占部と名乗った。
その苗字に、津田は「う~む。占部っちゅう名は、宮中に使える神官に多かったからな」と頷いた。
客たちの声が静まる中、占部の言葉が流れた。
「……かしわでを2回打つのは、日本人ならではの習慣なんです。“いただきます”や“ごちそうさま”って、手を合わせることの原形でもあるんですよ。魏志倭人伝という古い記録がありますけど、そこに書かれている倭人が日本人の先祖で、その人たちはとても礼儀正しく、手を打つことで感謝を表したそうです。だから、それが今日も受け継がれてるわけです。でも、最近の日本じゃ、いただきますさえ薄れてしまって、ちょっと悲しいですけどね」
「ほう~、これは高尚な、ええ話や。なかなか、居酒屋では聞かれへん。いただきますやごちそうさまは、命あるもんを食べるよって、ありがたいと感謝することや。お酒もまさに、そうやなあ」
ほろ酔い顔の津田が、嬉しそうに盃を飲み干して、真知子に「いただきますぅ」と手を合わせて、酒を催促した。
「ということは、“幸せなら手を叩こう”ってあったでしょ?あれって、魏志倭人伝をヒントに生まれた歌かも!」
真知子がひらめいたとばかりに声を高めれば、「ええ、私もそう思います」と、占部もおかわり酒を催促した。
客たちも「おお!それ言えてる~」と感心する中、松村はこれみよがしに肴を食べては、酒を飲んでは、手を叩いた。

「あのなぁ。ポンポン、むやみに叩くんじゃねえ。うるせえんだよ!」
顔をしかめる澤井に、松村が得意げに答えた。
「幸せだから、感謝して手を叩いてるの。いいじゃないの」
すると、津田が負けじと3つ、手を叩いた。
「数が多けりゃ、いいってもんじゃないでしょ~?」
口を尖らせる松村に、津田が「3回叩くのは、昔から人を動かす合図なんや。接待のお座敷で、配膳の係を呼ぶ時とか、そうするんや。ただし、この場合は……」と占部に笑いかけた。
「……どうぞ、お帰り下さい。ですねぇ」
占部の澄んだ声に続いて、客たちの幸せそうな笑い声が、マチコの中に満ちていた。