Vol.140 カンジキ

マチコの赤ちょうちん 第一四〇話

いつも口うるさい午後のワイドショー番組の司会者が、その日は絶叫するかのように興奮し、都心の大雪のもようを報道していた。
朝から繰り返されるそんなニュースと降り止まない雪に、真知子もうんざりしながら、下駄箱の奥の長靴を引っ張り出して、店へと向かったのだった。
前夜から降り始めた雪は、十数年ぶりに関東一帯を銀世界に変えていた。
凍てついた都心の道路網は麻痺したままで、夕刻になってもマチコの通りのそこかしこで、ウィンカーを点滅させるタクシーや乗用車が立ち往生していた。
「東京ディスニーランドの、エレクトリカルパレードみた~い!」
足元のおぼつかない母親をおいてきぼりにして、長靴の少女が元気に駆けて行く。そのはしゃぎように、真知子は懐かしさを感じつつ店先の雪だまりを掃き寄せていた。
しかし、今夜は臨時休業した店も多いのか、近所の小料理屋やラーメン店は軒並み灯りが消えているのだった。
むろん、マチコには常連客どころか、一人の客も現れない。
「……私も、早めに終わっちゃおうかしら」
赤い提灯を濡らしていたぼたん雪は粉雪に変わったが、いっこうに弱まる気配はなかった。
ふいに後ろから、雪を踏みしめる音がメリリッと響いた。
「あの……お店、やってますか?」
振り向くと、男の肩に積もった雪が提灯に赤く染まっていた。
見かけない顔だったが、手にする大型のボストンバッグに、マチコは出張中の雪やどりかなと察した。
「ええ、大丈夫ですよ。どうぞ……たいそうな雪で、大変ですねぇ」
真知子が格子戸を開けて店に入ると、男はトレンチコートにまとわり付いた雪をはたき落として、「慣れてますから」とはにかんだ。
蛍光灯の下で見ると、色白のスマートな男だった。そのためか、鼻先の赤さが目立っている。
「どうしましょ?おビール?お酒?」
真知子は訊ねながらコートを受けようとしたが、男はそれを笑顔で制して「あの酒を、熱燗で」と津軽の地酒を目で指しながら、自分でハンガーにかけた。
「青森から、ご出張で?」
真知子が錫のチロリに酒を注ぎながら、さりげない口調で訊いた。
「へぇ~!よく分かりましたね。女将さん、読心術でも持ってるんですか?」
「いえ……このお酒、東京じゃ、なかなか手に入らなくって。地元にしか出回ってないんです。だから、これを目ざとく見つけるってことは、そうでしょ?」
男はカウンター席に座ると、瞬時に熱くなったチロリの燗に驚きながら、真知子の酌を受けた。
「なるほど~、そうなのかぁ。この酒、そんなに希少なんですか。津軽じゃ、私も父もこの酒が定番なんだども……でも女将さん、よぐ手に入れましたねぇ」
気持ちがゆるんだのか、男は語尾を少し訛らせた。
その言葉尻に、真知子は、在りし日の辻野の声を聞いた気がした。
「最初の1本は、ある津軽の人が持って来てくれたの。うちの常連のお客さんだった。そう、ちょうど今あなたの座っている所が指定席だったわ。何だか、不思議ね」
男と真知子の会話は、しんと静まった店内に染み込むようだった。その合間に、煮詰まるおでんの音がクツクツ聞こえた。
窓の外の雪は霏々と降りしきり、歩く足音も吸い込んでしまうのか、マチコはまるで寂れた北国の酒場のようだった。
「ねぇ?お客さんも“じょっぱり”?強情で、我慢強いタイプには、見えないけど」
雪の風情が誘ったのか、真知子はそう問いかけると津軽の酒を冷やで一杯傾けた。
「そんですねぇ……こう見えても、案外じょっぱりかも。だどもね、反面じょっぱりは寂すがり屋で、お気に入りの居酒屋を作りたがるんですぅ。そこで、とことん飲んで、潰れて、雪にまみれながら帰ってくぅ。今夜は、俺もそうなりそうです。すっかす、駅前のホテルまで歩けっかなぁ……」

自信なさげながら、どことなく嬉しそうな男の顔は、もう全体が赤くなっていた。
その言葉に、真知子はしみじみとした辻野の飲みっぷりや、時間を忘れたかのように話し込んでいた姿を思い浮かべた。
ふと真知子は、壁に掛かったある物に気を引かれた。
「そうか……辻野さん、ありがとう。お客さん、大丈夫よ。ほら、あれを貸してあげるから」
真知子が指さした先に、男は「あっは~!こりゃ、いいべなやぁ」と破顔一笑した。
かつて辻野が店の飾りに持って来たカンジキが、そこに掛かっていた。
「……ここにはいっづも、津軽があるんですねぇ。女将さん、またぜひ寄してもらいますぅ」
男の心地よさげな津軽訛りと真知子の声が、とめどない雪に吸い込まれていった。