Vol.141 うまい酒

マチコの赤ちょうちん 第一四一話

春一番はとっくに吹いたというのに、幾度となく、寒の戻りがやって来ていた。
百貨店のバーゲンセールでは、売れ残っていた冬物衣料が飛ぶように売れて、夕刻の都内は、またも着ぶくれた通勤客が行き交っている。
マチコの通りの片隅でふくらんでいた梅の花も、凍えるかのように縮こまっていた。
提灯の明かりを点けた真知子は、その淡い紅色の蕾にハァ~と息を吹きかけ、「春~よ、来い♪ 早~く来い♪」と手をすり合わせながらを口ずさんだ。
すると後ろから「今夜もキレイな、真っちゃんに~♪」と、津田の声が替え歌して、その横にいる澤井が「春~の着物が、お似合いで~♪」と続けた。
その歌のシメにどぎまぎしている松村に、「和也君、コピーライター上がりやろ? 即興、でけへんのかいなぁ~」と津田がつっこんだ。
「えっ、あっ、……彼氏が欲しいと、待っている~♪」
「ば、ばか野郎っ!」と澤井が目を白黒させるやいなや、真知子の草履が和也の靴をドシンと踏みつけた。
「ぐわっ! 痛っててて~! ま、真知子さん、ジョークだよ、ジョーク! 勘弁してよ~、俺、足の指がシモヤケなのにぃ」
「そう! じゃあ、この際、顔もシモブクレになってみる!?」と真知子は平手に息を吐きかけた。
三十路の半ばを超えてから、真知子の前では、津田でさえも彼氏話は禁句である。
「うわっとと! ゴメンなさい。この通り、謝るからさ。もう、許してよぉ」
ヘッピリ腰で合掌する松村の姿に、真知子は「ざけんじゃねぇよ」と腕まくりして説教し、そのようすに津田や澤井だけでなく、店へやって来た客たちも失笑していた。
なにはともあれ、マチコのカウンター席でお燗酒のさしつさされつが始まり、和んだ雰囲気に包まれるのだった。
するとそこへ、宮部が見覚えのある若い男と現れた。
宮部が以前に連れて来た部下で、山口という三十歳そこそこの営業マンだった。
「おい、俺たちもお燗酒にすっか?」
カウンターの面々に軽く挨拶しつつ、宮部が山口を誘うと「いやぁ、今は大吟醸ですよ~。そろそろ味がノッてきて、旨味がまろやかになってきてますからね。宮部次長も、それぐらい敏感にならなきゃダメですよ」
山口は奇をてらうかのように、新酒の熟成について語り始めた。そして冷酒を一杯、二杯と空けて饒舌になり、澤井や松村が彼の話しに感心すると、新しい酵母や酒米の情報についても自慢げに吹聴するのだった。
カウンター席の常連客の一人が、じゃあ今一番うまい酒を教えてくれと、宮部たちに訊いた。
宮部が笑って答えようとするのを、山口の言葉が制した。
「最近だと、穏やかな香りの酵母と旨味の出る米を使った純米吟醸クラスがおすすめですよ。あまり香りがキツくなくて、ずっと飲み続けることができますから。それから……」
「おいっ、山口! いいかげんにしろ。お前、分かってねえな」
宮部の声が店内に響くと、今しがたまで山口の語り口を黙って聞いていた津田と真知子が目を合わせ、ふっと笑った。
二人とも「ようやくか」と言う表情だった。
「な、何がですか!? お、お言葉ですがね、分かってないのは宮部次長じゃないですか。俺、これでもかなり勉強して……」
「それは認めるよ、だがな、お前の言ってるのは、自画自賛なうまい酒だ。本当にうまい酒ってのは、飲む人が、お客さんがそれぞれ決めるもんだよ。セオリーや理屈は、アドバイスまでにしておけと言ってるのさ」
「でも、人気の銘柄や上質の酒を紹介すれば、お客さんも喜ぶじゃないですか。僕はきき酒も人一倍やってきたので、そんな舌を持てるようになったと思っていますよ」
あくまで反論する山口に、宮部の耳たぶが赤らんでいた。
そろそろ潮時と見たのか、津田はふうっとため息を吐くと、宮部の肩を軽く叩いて落ち着かせた。
「山口君、ほな、わしが飲んでるぬる燗の酒、きいてみいな」
津田は真知子に盃をもらうと、その一杯を山口へ手渡した。
山口は盃を傾けると、鼻先で香りを確かめ、酒が喉を越してからもしばし余韻を味わっているようだった。
澤井や松村が耳をそばだてる中、彼は口を開いた。
「7号酵母ですね。米は山田錦かな、ちょっと辛口で、関西人の津田さんには灘の酒に似てて、合うのかも。だけど、僕にはどうも……もっと甘いのが、美味しいんです」
すると、津田は「いいや、君はこの酒を、うまいと言うたがな」と笑った。
「はっ? 言ってないですよ」と眉をしかめる山口の前に、真知子がその酒の瓶を置いた。
「あなた先週、キレイな女性といらした時『真知子さんオススメのお燗酒を、お願いします』って言ったでしょう。その時、出したお酒よ。二人ともとっても美味しいって、気に入ってくれてたじゃないの」
真知子のいたずらっぽい微笑みに、山口の顔は一気に紅潮した。
「な、なんだよ? お前、それって誰なんだ?」
俄然、宮部の興味は日本酒からその女性にシフトしたが、山口は赤面して口をつぐんだままだった。
その横顔に、津田は目尻をほころばせながら語った。
「まあ、内緒にしてたんやったら、すまんこっちゃ。けど、この話の素はあんさんや。わしが言いたいのは、あの時、あんなに美味しそうに飲んでたのは、どうしてかっちゅうこっちゃ……酒は、誰とどこで、どんな場面や話題 で飲むかで、美味しくもまずくもなる。そやさかい、“うまい酒”っちゅうのは、宮さんが言うように、最後は飲む人自身が決めてるわけやな。それを忘れたらあかんな。あんさんが身につけたセンスや知識は、素晴らしい。せっかくの才能や、活かしたらええ。けど、あくまで主役は飲む人それぞれ。あんさんは、アドバイザー。それが酒のプロフェッショナルの在り方やと、わしは思うで」
頷きながら聞き入る男たちの中で、山口は唇を噛んだままだった。
重苦しくなりかけた雰囲気に、真知子がゆっくりと口を開いた。
「手前勝手だけど、うちのカウンター席はね、愚痴っぽい話や悪口・陰口を叩くお客さんは座れないの。他のお客さんのお酒がまずくなると思うから、そうしてるの。マチコにいらしたお客さんには、いろんな方がいるわ。日本酒のツウから初めて飲む人まで。でも、それぞれのお客さんにとって美味しいお酒って、何かしら。それは種類や銘柄よりも、飲む人の心をしあわせにできるお酒だと私は思う。山口君は、その半分だけ、サポートしてあげて欲しいな」

真知子はそう言って、宮部に目を合わせた。コクリと小さく頷いた宮部は、山口の肩を軽く叩いた
「じゃあ、幸せになれそうな山口の話題で飲もうや。ところで、その女性って彼女だろ? 結婚するのか? それなら先輩として、俺が今夜はアドバイザーだな」
宮部の言葉に、山口ははにかみながら「はっ、はい」と表情を和らげた。
すると、松村の声がその肩越しに飛んできた。
「ダメダメ、宮さんがアドバイザーなんて無理だよ。年中、出張で飛び回って、奥さんカンカンなんだから?」
「うるさいよ、和也! あんたなんて、年中飲み回って、奥さんからガンガン! やられてるんじゃないの」
またしても真知子の草履が、松村のしもやけ足を踏みつけた。
松村の泣き声と男たちの笑い声が交じり合う中、うまい酒の盃が、もう一杯、また一杯と、交わされていった。