Vol.142 月下美人

マチコの赤ちょうちん 第一四二話

ここ数日、気温はうなぎ登りで、日比谷公園の桜の蕾はもうふくらみ始めている。
深夜になってもぬくもりが残っているせいか、マチコの通りは生温かった。
10時半を過ぎ、閉店時間に近づいていたが、店の小窓からは、はしゃぎながら通り過ぎて行く新入社員とおぼしき若者たちが見えた。
その初々しい表情に真知子は一瞬顔をほころばせるものの、ガラス窓に写る自分の目尻のシワに、ふうっとため息をつくのだった。
「この店をして、何度目の春かしらねぇ……もう、忘れちゃったわ」
独りごちていると、格子戸がカタカタと音を立てた。
ソフト帽をかぶったロマンスグレーの頭がちらと覗いて、真知子は津田だと悟った。ところが考えてみると、こんな時間にやって来るのはおかしい。
「どうしたの、こんな遅くに?」
「ふむ……さっき宮さんから『マチコで、待っててよ』って、電話があってなぁ? 不思議やろ」
朝の出勤が早い宮部は夜10時になると飲むのを切り上げ、もう帰宅しているはず。閉店間際に津田を呼び出すなど、これまで一度もないことだった。
「わし、どうも腑に落ちんのや。だいぶ前に、宮さんブツブツつぶやいとった。どこぞの美人が、何とかって」
「へぇ!? 宮さんにそんな浮いた話しが、あったの? 津田さんに、女性の相談ごとかしら?」
冗談めかしたものの、ここ2週間ほど、真知子も宮部の顔を見ていない。
新酒の最終シーズンに、また全国の蔵元を飛び回って酒をセレクトしているのだろうと思っていたが、いささか、今の話しは気になる。
たくわえた髭をさすりながら、津田はタバコに火を点けた。それは、何となく気がかりになった時、津田が取るしぐさだった。
すると、今度は荒っぽく格子戸が開けられ、酔った声が店内に響いた。
「こっ、こっ、こ~んばんわぁ~! まだ、やってるぅ!?」
松村が、千鳥足で入って来た。
「おお、和也君か。ええ調子やなぁ、そんでもまだ、飲む気ぃかいな? もう、店はお終いやで」
「いや~、ちゃいます! ちゃいますぅ! 宮さんから電話があって、『ええもんを、見せてあげる』ちゅうから、来ましてん。けっ、けっ、けどねぇ、さっき携帯に、メールで音楽データが送られて来て……後で、こっ、これ使うからって書いてんねんけどぉ・・・…どっ、どういう意味やろか」
酔ってご機嫌な松村は、すっかり関西弁に戻っている。
「まったくもう、ベロベロじゃないの! ……それにしても変よねぇ。宮さん、何を企んでるのかしら」
松村は、携帯のデータを再生した。それは沖縄民謡の「島唄」だった。
「何じゃこれ? よう、分からんなぁ?」
津田と真知子が顔を見合わせていると、またもや格子戸がゆっくりと開いた。
「宮さ~ん、勘弁してよぉ。俺、もう電車に乗るとこだったのにぃ……って、あれ? 宮さんいないじゃん?」
駅から引き返して来た澤井は酒の抜けてしまった顔つきで、その手にはコンビニで買ったらしい小さな瓶が覗いていた。
「おろ!? それ、何なのさ? さっ、酒なら売るほどあるんだよ! でも、もう飲めないよ! 閉店だよ!」
からんでくる松村の頭を、澤井はその“泡盛”の小瓶で小突いた。
「痛ってぇ~!! な、何すんのさぁ。……でも、何で泡盛なのさぁ~」
松村の声に、澤井も「知らねえよ、宮さんが電話で、これ買ってマチコに行ってくれって言うからだよ。ったく、でもって、自分はまだ、来てねえんだもんな」
口を尖らせる澤井がカウンターに座ると、その泡盛の瓶を津田と真知子はしげしげと見つめ、同時に首をかしげた。
「島唄に泡盛か……こりゃ、沖縄特集やがな」
「そうなると、後は宮さんが、美味しい沖縄料理でも持って来るのかしら」
すると、その声に応えるかのように、車のエンジン音が店先に止まった。
松村はよろけながら、玄関を開けた。
「ほっ、ほ~ら、ご到着ですよぉ~! 贅沢にもタクシーで登場かよ、宮さん!! あっ、あれぇ~?」
ところが停まっているのは宅配便の車で、若い配達人は受取印をくれと不機嫌そうに松村へ告げた。こんな遅くに到着指定する便も、珍しい。
サインを殴り書きしようとする松村をさえぎって、真知子は判をついた。
「宮さんからだわ……久米島だって。ナマモノって書いてるけど……」
クール便の箱に、澤井も松村も「うっ、うまいもんかな?」といまだにやって来ない宮部のことを忘れていた。
「あら? 手紙」と、真知子が荷物に貼られている封筒を開いた。
しばし見つめていた真知子は、「そっ、そんな! いきなり過ぎるわよ」と言葉を失った。
「何じゃいな?」と津田が訊ね、「どうしたのさ?」と澤井は怪訝な顔になり、松村は「早く食べた~い。でも、手紙も見た~い」と叫び、3人ともが便箋を覗き込んだ。
前略 真知子さん、津田さん、澤井さん、そして和也君
突然ですが、私こと宮部は、今、久米島におります。
実は、この島に移住することにしました。
島にある一軒の得意先。つまり、酒屋さんの親爺さんが倒れてしまったんです。
それで、身寄りの無い親爺さんの後を継ぐことを、決心しました。
私が若かりし頃、とてもお世話になった人です。ウチの亡くなったカミさんと知り合ったのは25年前。この久米島を旅していた時、親爺さんに紹介されたからなのです。
いろいろと考えました。みんなを驚かすことは当然で、薄情者呼ばわりされるかもしれないけど、妻の故郷であるこの島に暮らすことにしました。
私が第二の人生を選んだのは、マチコのみんなに人の温かさ、優しさとは何かを、教えてもらったからです。
さよならを言うのはツラいので、こんな下手な策を使ったしだいです。
私も今、島唄を聴きながら、泡盛を傾けています。願わくば、ご相伴をよろしくであります。
どうか、許して下さい。きっと、必ず、またマチコへ参ります。
真知子さん……送った鉢植えの花は、久米島に咲いている「月下美人」という花です。一年に、たった一晩だけ咲くという希少な花です。
月の下に芍薬と咲く美しい女性……まるで、真知子さんそのもの。
私のようなむくつけき男には似合いませんが、カウンターの隅にでも置いて頂ければ幸いです。
そうですね……辻野さんの座っていた傍がいいな。
最期までワガママを言いますが、よろしくお願いします。
草々

追伸 和也君へ  マチコの将来は、君にかかっている。明るく、元気で、ズッコケのままで頑張って下さいね。


手紙を読む4人の声が、ようやく落ち着きを取り戻した。
松村と澤井のため息……津田のうなずき……そして、唇を噛みしめる真知子が箱を開けると、白い花が咲いていた。
しばしの間、それを前にして、みな言葉を失くしたまま座り込んでいた。
「月下美人か……いつも口数少ない宮さんにしちゃ、最期にキメてくれるじゃないの」

鼻詰まった澤井の言葉に、松村が酔いを醒まそうと顔を叩きながら言った。
「ちっ、ちぇ! 久米島へ行って、またズッコケてやるからなぁ」
そのようすに、真知子は目頭をそっと押さえた。
「私、いつか久米島の月の下で、マチコを開く……一晩だけ」
「そらぁ、ほんまもんの月下美人やなぁ」
津田の優しげな言葉が、流れる島唄の中で揺れていた。