Vol.17 夜汽車

マチコの赤ちょうちん 第一七話

 真知子の顔を映す車窓の向こうに、オレンジ色の灯が現れては、ふっと消えて行く。
二段式ベッドを向かい合わせた狭いコンポーネントの中には、真知子のほかに、五十歳半ばと見える女性が一人横たわっているだけだった。
レールのつなぎ目が、コトトン、コトトンと大晦日の夜を刻んでいた。
大阪から熊本までの道程に夜行特急「なは」を薦めてくれたのは、しばらく音信不通にしていた津田だった。
「今年は景気も最悪で、辛気臭いことばっかりやった。真っちゃんとこへも、あんまし行かれへんかったなあ。よかったら、年末は田舎へ帰るついでに大阪へおいでえな。黒門のフグでもごっつおするさかいに。こんなせからしい時こそ、のんびりと一年を振り返ってみることも大事やで」
そんな不意打ちの誘いでこちらの心配をはぐらかすのも、津田らしい思いやりにちがいなかった。
真知子は、ようやく彼が、法善寺横丁の罹災から立ち直ったことに安堵した。
津田が手渡してくれた柿の葉寿司を寝台で開けようとした時、まったりとした関西訛りが聞こえた。
「あの……ちょっとお話しでも、しいへん?」
ふくよかな面立ちの女性が、向かいの席で身を起こしていた。
地味な柄のセーターとウールのスカートには、飾らない人なつこさを感じた。
よかったら一緒にと、女性はアルミカップの酒をボストンバッグから取り出した。部屋に備え付けの紙コップに、彼女は酒の半分を注いでくれた。
真知子は、その行為を素直に受け入れ、柿の葉寿司を勧めた。
どちらも取り繕うことなく、ごく自然に会話は和んだ。
ありふれた気候の話題から、気がつけば、お互いの境涯も少しずつ語り合っていた。
時折響く汽笛が、二人の仲を取り持っているかのようだった。
女性は初江という名で、宮崎県の都城出身だった。大阪に住んで三十年余りになるが、若い頃は真知子と同様に帰省がおっくうだったらしい。
しかし、四十の坂を越えてからは、宮崎のおっとりした空気がやけに恋しくなったと言う。
「真知子さん。お父さん、首を長うして待ってはるわ。久しぶりの親孝行やねえ」
初江は、我がことのように笑みをこぼした。
「実は、最近父とはほとんど話してなくて。正直言って、面と向かうとやっぱり昔のことが……」
真知子は母の急逝や以前の父の酒癖など、言いよどむことなく、打ち明けた。いつになく酔いも回り、自分でも不思議なくらい心情を吐露していた。
「真知子さん……。お父さんかて、どう言うてええのんか、きっと悩んではるよ。頑固なお父さんみたいやけど、連れ合いを失くすと、男の人は芯から落ち込んでしまうし、ほんまは真知子さんに優しくしたいはずや。ましてや、たった一人の娘なんやもの」
列車は関門トンネルに入った。真知子と初江の間に、沈黙がとどまった。長い闇と車輪のこだまが、真知子に、初江の言葉を幾度も反復させていた。
トンネルを抜けると、初江が口を開いた。遠い眼差しが窓の外を見ていた。
「この歳になっても、私は宮崎に帰るたび、母親が目の前にいてることに安心して、なんとなく我儘になってたりする。いくつになっても、子どもは親に、どこかで甘えてるのとちゃう?親にしても、やっぱり子どもが心配。それで、ええのちゃうかなあ……」
真知子は、目から鱗が落ちる思いだった。

 父に甘えることで父の息災を育もうなど、考えてもみないことだった。
「夜行列車は、自分をじっくり見つめることができるんよ」
つぶやいた初江の横顔が、母のようだった。
車窓の彼方で、薄墨色の夜雲から月がのぞいていた。その明かりの中に母の笑顔が浮かんだ。
「母さん。いつも見ていてくれて、ありがとう。……明けまして、おめでとう。今年もよろしく」
汽車はゆっくりと、明るみ始めた山並みに向かって、駆けて行った。