Vol.32 高下駄

マチコの赤ちょうちん 第三二話

盆休みも終わり、5日が過ぎていた。マチコの軒先に吊るされた水色の風鈴が涼やかな音を奏でている。
「お久しぶり~、まだまだ暑いね。あれっ?」
田舎土産を手にする松村が格子戸を開けると、見慣れない青年が厨房の中に立っていた。
真剣なまなざしで包丁を持つ姿。真新しい割烹着と坊主頭に、まだまだ新米の料理人っぽさが感じられた。横には、その手元をじっと見つめる真知子がいる。
真知子は松村に気づくと、「ちょっと理由ありでね。こういう状態なの」と包帯でぶら提げる右腕を見せた。
「どっ、どうしたの! 骨折ったの? 事故にでも遭ったの?」
松村は、思わず土産物の包みを握りしめた。
「おかげで俺なんぞ、3日間、真ちゃんの料理をお預けなんだ」
カウンターに座る辻野は唇をへの字に曲げ、松村を見返すのだった。

盆明けの日、冷蔵庫を空にしていた真知子は、久しぶりに鮮魚市場まで足を伸ばした。
帰る道すがら、界隈でも有名な老舗の仕出し屋「清水庵」を通りかかった時だった。
「とっとと行かねえか。いつまでお客を待たせるつもりでぇ!」
その怒鳴り声に弾かれたように、若い板前が岡持ちを提げて飛び出して来た。板前は白いゴム長靴を滑らせ、真知子に突っかかった。真知子は、よろめきざま、地面へ突いた右手を挫いてしまった。
板前は「大丈夫ですかっ! ごめんなさい」と、慌てて真知子に手を差し伸べた。
「うっ…」
真知子は、痛みに声も出なかった。その時、清水庵の暖簾から割烹着姿の中年の男が顔を出した。
「おいっ、吾一! いつまで油売ってやがる。……うん? 何かあったのか」
「兄さん、すみません。俺、この人に怪我させてしまって」
吾一という板前の返事に、男の眉間が深く皺立った。
「バカ野郎! 手も遅けりゃ、足も遅え。ったく! 何の役にも立たねえ。お前なんぞ、もう辞めちまえ!」
先輩らしき男は吾一から岡持ちを奪うと、そう吐き捨て、通りを駆けて行った。
そして夕刻、病院から帰る真知子の横には、吾一が並んでいた。
「ありがとう、もう大丈夫よ。早く、清水庵に戻った方がいいわよ」
右腕を吊るす真知子の声に、吾一はポツリと答えた。
「俺、帰りません…」
「駄目よ、やけを起こしちゃ」と真知子が言いかけた時、吾一が話しを始めた。
彼の名は鈴木吾一で、この世界に入ってまだ2年目。20歳だった。
両親共稼ぎの家庭に育った吾一は、小さい頃から自分で食事を作ることが常で、それがきっかけで料理人を志すようになったと言う。
しかし、この世界の厳しさは、生半可ではない。罵声を浴びせられる毎日に、今どきの若者の吾一は我慢も限界のようすだった。
「清水庵は、俺に向いてないんです!」
その言葉を聴いた時、真知子の中で気持ちが動いた。
「そう……じゃあ、うちでアルバイトしてみる? 私もこの手じゃ、しばらくはどうしようもないし」
「本当ですか! へへっ、任せてくださいよ。家庭料理ならバッチリですから」
真知子の声に、吾一は余裕尺々の表情で胸を張った。
だが、それからの5日間、マチコの料理は遅れていた。そして、皿に残される料理に、吾一の表情は曇るばかりだった。

閉店まで時間はあるのに、赤ちょうちんの灯が消えた。
客たちが帰る時刻は、いつになく早かった。ひどく遅い料理に、腹を立てて帰った客もいた。店には辻野と松村が残っているだけだった。
「それで、いつまでアルバイトさせるの?」
吾一の件を知った松村が冷酒グラスをなめつつ、真知子に訊ねた。
「そうね……吾一君しだいかな」
意味ありげに声をひそめる真知子の後ろから、顔を引き攣らせた吾一が現れた。
「女将さん。やっぱり俺には、才能が無いんでしょうか?」
「……その答えは、お客さんに訊いてみることね」
そう言って、真知子は辻野と松村へ目をやると、店奥の茶の間に引っ込んだ。
しばしの沈黙が、マチコに漂った。
「なあ、吾一君。俺もそうだったけど、自己満足だけじゃあ、いい仕事はできないぜ」
松村の声は優しく、どことなく自信に満ちていた。
その声が途切れると、辻野が盃を飲み干して、こう言った。
「うむ……自信を持つことは大事だが、初心を忘れちゃあいかん」
吾一の肩がかすかに震えていた。その肩越しに、ふいに真知子の顔が覗いた。

「5日間、お疲れさま。ありがとうね、吾一君。これはご褒美」
真知子が渡した四角い箱には、桐の高下駄が入っていた。
「明日から出直しよ。高下駄って、板前の基本でしょ。上手に履けるようになって、もう滑らないようにね……人生も。それから、清水庵の親方には、今日まで吾一君をお預かりしますって、お願いしといたから」
「女将さん……俺」
吾一の背中を、ほほえむ真知子がポンと叩いた。
月明かりを映す路地に、吾一の下駄が心地よい音を響かせて行った。