Vol.33 カクテル

マチコの赤ちょうちん 第三三話

いつの間にか、マチコの窓から茜色のほうき雲が見え隠れする頃になった。
涼し過ぎる月曜のせいか、その日の客の入りはまばらだった。カウンターには松村と澤井。もう一人は「この気候じゃあ、残暑見舞いにならないね」と、久しぶりに顔を見せた秋月商店の宮部だった。
そして、今一人、テーブル席に座る中年の男が三人の関心を引いていた。
「あんなタイプを、イケメンって言うんすよ」
松村が、ぬる燗をなめる宮部の耳元でささやいた。
宮部だけでなく、横並ぶ澤井の視線も、ゆっくりと端っこのテーブル席に向けられた。
伸びた鬚と長髪が、浅黒い顔と二重瞼を包んでいた。男のどことなく陰を引いた雰囲気は、人気の映画俳優に似ている。
「ふーん。ようするに、男前ってことか。だけど、どっか疲れた奴だね」
男のテーブルには、飲みかけの冷酒グラスが6つもあった。
「あれって、きき酒でもやってるつもりなのか?」
澤井の声には、少し嘲ったような響きがあった。
そんな三人の会話を、洗い物を片付けた真知子がとがめた。
「あんまり、ジロジロ見ないの」
「おっ、ちくしょう。もう真知子さんのお気に入りなの?」
面白くないといった表情で、松村が唇を尖らせた。
「何を言ってんだか……ワケありに見えるから、そっとしておいてあげたいの」
小声で真知子が答えた時、叫ぶような声がした。
「これだ! これならイケる。女将さん、この酒はどこで手に入りますか。いや、それより残ってるこの酒を、瓶ごと売ってくれませんか!」
腰を椅子から浮かせた男は、声を震わせながらグラスを手にしていた。
「はあ? 何だよ、そりゃ」
澤井がすっとんきょうな声を上げて、眉をしかめた。
突然の願いに真知子も驚き、そして、答えに詰まった。その酒はマチコのために宮部が特別に手配してくれた秘蔵の金賞酒で、二つと手に入らないものだった。
「ごめんなさいね。このお酒は、これ1本きりで……」
真知子がそう言いかけた途端、男が土下座をして、額づいた。
「お願します。頼みます。何とか、譲ってくれませんか!」
一瞬、店の中が水を撒いたように静まりかえると、席を立った宮部が男に近づいた。
「あんた。いったい何があったの? 女将さんだっておっかなびっくりで、答えようがないよ」
男は肩を落としたまま、椅子に戻った。そして、ポツリポツリと語り始めた。
名前は乃木純一。隣町の古いバーで、バーテンダーをやっていた。持ち前の容貌と雰囲気はバーマンらしく見えるが、実のところ、シェイカーを振る腕は平凡らしかった。
19歳から勤めるそのバーは、年々傾きかけていた。そして、つい最近老齢のマスターが急逝し、とうとう店を閉めることになった。
「もう、銀行の担保に入ってたんです。俺は、それをまったく気づかずに……若い頃から、女性客相手にいい気になってた。バーテンの本業を怠けてばかりだった。今度こそ、やり遂げたいと思うんです。マスターに、俺のカクテルを見てもらいたい。そして、いつか自分で小さな店を始めたいんです」
乃木はそう言って、掌を握り締めた。
「ってことで、日本酒ベースのカクテルか」
ことを察する宮部に、乃木は黙ってうなづいた。
「……いいわ。じゃあこれ、持ってって」
真知子が一升瓶を手にすると、松村が物惜しげに「あっ、あっ」と声を洩らした。水野はコップ酒を一気飲みし、ムクれて腕を組んだ。
と同時に、宮部の手が真知子を差し止めた。
「ただし、3杯分だけだ! それ以上はやれねえよ、乃木さん。これはマチコのお客さんのために、俺が手に入れた酒だ。それがルールだ。それに、3度でやってみせる覚悟がなきゃ、何度やり直したって駄目だよ!」
吐き出す宮部の言葉に、真知子も松村たちも圧倒されていた。
宮部は空瓶に3杯分の酒を注ぐと、乃木の胸に押しつけた。
乃木は「……すみません」とつぶやき、勘定をして帰って行った。
「でも、宮部さん。無理なんじゃないの? 3杯分だけなんて」
松村が、宮部の盃に酌をしつつ訊ねた。
「本気で復活しようって気があるなら、ひょっとしたらな……」
その宮部の言葉から、一週間後。乃木がマチコに現れていた。
真知子が呼び出した水野、松村、そして宮部の前で、乃木はゆっくりと銀色のシェイカーを持った。
「最後の一杯分を、残しました」
乃木のシェイクが、軽やかなリズムを奏で始めた。腕の無さを自嘲したことなど、嘘のようだった。何度も“振り”を練習したことがうかがえた。
冷酒グラスに少しずつカクテルが分けられ、それを口に含んだ4人ともが「ん!」と声を洩らした。
「イイじゃないすか、これ」と、松村が声を高めた。澤井は「ああ、なかなか。日本酒の香りも生きてる」と鼻を鳴らした。
「……まだ少し、納得がいかないんです。でも、どうしても、皆さんに飲んでもらいたかった」

そして、真知子が口を開きかけた時、宮部がおもむろに持っていた新聞紙の包みを開いた。乃木だけでなく、きょとんとする真知子たちが目にしたのは、あの金賞酒の四合瓶だった。
「何とか手に入れた……仕上げは、これでイケるな」
「み……宮部さん」
乃木の声が途切れた。だが、しばらくすると、軽やかなシェイク音がふたたびマチコの店先に流れた。
今度は、いくつかの笑い声も響いていた。