Vol.34 ロウソク

マチコの赤ちょうちん 第三四話

バリバリッ、ドドーンという大音響が、にわかに激しくなっていた夕立ちの音を掻き消した。
「キャッ!」という真知子の叫び声とともに、付近一帯が暗闇に吸い込まれた。
「おっ、停電かいな。こんな都会で、珍しいなぁ」
暗いカウンターの隅から、久しぶりにくつろぐ津田の声が聞こえた。
一瞬、マチコの店内はざわめき、ライターの灯りがぽつぽつと点いた。
今年の東京の夏は日照時間が少なく、まさに冷夏。かと思えば、たまに気温が上昇すると猛烈な夕立に襲われ、まったく落ち着かない天候だった。
夏の終わりを告げるでもない雷雨が、残暑を延び延びにしていた。
「遅いわねえ。まだ点かないわ」
痺れを切らした真知子がロウソクを手にして、客の影が揺れているカウンターとテーブル席を回り始めた。
「ほうっ、こりゃオツだねえ」
「うんうん、なんだかワクワクしてくるね」
男たちの無邪気な声が、あちらこちらから聴こえた。
客席は蒸し暑かったが、それでも、帰ろうとする人影は見当たらない。ほのかな灯りに浮かぶマチコは、いつになくノスタルジックな雰囲気だった。
客たちの会話も小声で、津田は酔いを楽しみながら、路面を叩く雨音に耽っているように見えた。
「懐かしいような、哀しいような……妙な気分や。けど、やっぱりロウソクの灯ちゅうのは、ええもんやなあ」
津田の言葉に、同じ年代の辻野がウン、ウンとうなずいて、冷酒をひと口啜った。
稲光がパパッと走り、マチコの格子戸に射し込んだ。
「何だか、不気味すよ。百八つ物語とかあるじゃないですか。ロウソクの灯りの下で、怖い話しをするの」
バイト学生の塚田哲也が、澤井の横で、消えたままの蛍光灯を恨めしそうに睨んだ。
「それもまた良し。人間たまには、常日頃の暮らしのありがたさを知らなきゃあ駄目だ。君のような若いヤツは、特にそうだろ。子どもの頃を思い出してみな。もっとも、俺たちの時代とはずいぶん違うか」
塚田を諭す澤井の煙草が、蛍火のように、オレンジ色に光っては消えた。
カウンターに座った真知子が、それを見つめながらつぶやいた。
「小さい頃、雷が鳴って停電すると、よく蚊帳に逃げこんだの。蚊取り線香の匂いがプーンとして、雨が庭の笹を叩いて……私の母親も、ロウソクをよく点けてくれた」
頬杖をついた真知子の目に、やわらかな炎が映っていた。
「わしは、何ちゅうても、闇市のバラックを照らしてたロウソクや。当時は、それすら、なかなか手に入るもんではなかった。食うもんも、何もかも無い時代やったけど、ロウソクの灯りがあったら、みんな、明日もがんばって生きて行こうて思えた。自然に会話が生まれて、笑顔があった。わしが5、6歳の頃の思い出や。うちの店の“ともしび”の意味は、そこにもあんねん」
低くゆったりとした津田の声は、カウンターに染み入るようだった。
真知子は初めて聞く津田の素性に、彼の持つ優しさや強さの理由を何となく分かる気がした。
「そうね……こうしてみると、蛍光灯の光って明るいけど、いつも慣れてるせいか、温かみって感じにくいね。それに、たまにはこうして、静かに楽しんでもらうマチコも味があるかも」
ふと、焼き松茸のいい匂いが漂ってきた。真知子は口を止めて、厨房に戻った。津田の持参した上物の丹波松茸が、七輪コンロで炙られていた。
「マっちゃん、ちょうどええ具合に焼けたみたいやな。ほなら、塚田君の言葉を借りて、“百鬼夜行(ひゃっきやこう)”ならぬ“百喜焼こう”といこか。さあさあ、皆さん!おいしい焼き松茸で、喜びを分かち合いましょうな。思い出話しひとつに、ロウソク1本消していく。だいだい色の灯は心を癒す走馬灯。闇夜の酒も風情がおます。まあ、そのうち電気も点きまっしゃろ」

講談口調の津田に、店内の客たちから拍手が沸いた。
そして、津田本人がフッとろうそくを吹き消して話しを始めると、ひときわ高い雷鳴があたりに轟いた。
秋雷がマチコの仲間に加わりたいとでもいうように、赤いちょうちんを鮮やかに照らしていた。