Vol.38 チロリ

マチコの赤ちょうちん 第三八話

「ポーッ」と焼き芋売りの屋台の音が、寒風に乗って聴こえてきた。
薄暮れを映すマチコの玄関には、色褪せた朽ち葉がカサカサと舞っている。
「こんばんは。えらい、寒うなったなあ」
格子戸の開く音と太い声を背中で聞いた真知子は、いこってきた炭火に向かったまま「毎度~、おおきにぃ」と関西弁を返した。
カウンター席の水野が「熱燗の季節ですねえ。津田さん」と徳利を振った。その隣りに見えるのは、松村の顔。
テーブル席には、見慣れない中年の男が座っているだけだった。
津田はチェックのハンチング帽を脱ぐと、満面の笑みで水野に会釈した。
しばらく見ない間に津田の胡麻塩の鼻ヒゲは伸びていて、“たくわえる”という雰囲気になっている。
「ちわっす!オヤジさん」と、松村が冷酒グラスを持ち上げて挨拶をした時、鼻を赤くしていた新顔の男が、いきなり津田に近寄りヒゲをつまんだ。
「いちち!こらっ、何をすんねん。こいつ、こんな時間から悪酔いしてけつかる」
「おいっ。止めろよ、あんた」
慌てた松村は男を羽交いじめにすると、席に座らせた。
「何だよ、いきなり失礼だろ!」
松村の声で我に返った男は、「す、すまない」とぎこちなく頭を下げた。
男のテーブルには、空のビール瓶がすでに5本並んでいた。
その場は取りあえず収まったが、真知子の怪訝な表情を察した津田は、おもむろに紙包みを開いた。
「真っちゃん。これ、お燗に使うてんか。うまいでぇ」
茶色の紙包みから現れたのは、いぶし銀に光る2個の燗器だった。
「あらっ、これ錫のチロリじゃないの。おいしいのよねぇ、これでお燗つけると。味がとってもまろやかになるの」
真知子が、両手を合わせながら感嘆した。
「へぇ、これがそうなの。初めて見たよ。けっこう重いんだな」
水野がチロリの肌をさすりながらそう言った途端、男の声が響いた。
「けっ、お燗なんて、どんな風に飲んでも一緒だよ。まずくて、臭くて、最低だぜ!」
水を打ったように、その場がシーンとなった。奥歯をかみしめていた松村が、堪えきれずに怒鳴った。
「てめえっ!なんてことっ……」
その声を、津田の手のひらが押さえていた。
「あんた、わしのヒゲとお燗がよっぽど嫌いみたいやな。2度目の無礼やから、頭下げただけではすまへんで。そのわけ、聞かしてもらおか?」
しかし津田のまなざしは、言葉とは裏腹におだやかだった。
口を押さえられ「うーうー」と唸っていた松村は、ようやく落ち着き、息を整えた。
「……水を、一杯もらえますか」
男は、真知子からもらったグラスの水を飲み干すと、安部と名乗った。そして、充血した虚ろな目で話し始めた。
「俺の親父は、屋台のおでん屋をやってた。雨の日も雪の日も、おふくろと二人でね。けど、毎晩仕事が終れば、親父は熱燗を飲んでとっとと寝ちまって、その日の片付けも、明日の仕込みもおふくろまかせ。酒の臭いをプンプンさせて、高いびきだった。苦労し続けたおふくろは10年前に亡くなって、親父はピンピンしてる。だから、俺は親父のようなヒゲも、お燗も大嫌いなんだよ」
酔いの抜けない安部は興奮したまま、ポロポロと涙をこぼした。
「そんなの、八つ当たりもいいとこじゃないか!」
水野が声を高めると、ふたたび津田が肩を叩いて諌めた。
そして安部のテーブルに近づくと、そのまま横に腰を下ろした。
「安部はん。あんたのお母ちゃんは、お父ちゃんを嫌いやって言うてたか?」
「……いや。でも、嫌いだったはずだ。あんな、ワガママな親父。おふくろは病床でも愚痴ひとつこぼさなかった。けど、嫌々ながら屋台稼業をやってたにちがいないんだ」
そう答える安部の目は、津田のやさしげな視線を避けていた。
「そらぁ、あんたの偏見やな。ほんまは、あんたが恥ずかしかったんやろ?嫌やったんやろ?屋台を引いてる両親が。そんな気持ちが、酒も嫌いにさせてんのちゃうか。何も恥ずかしいことなんかあらへん。れっきとした、すばらしい商売やないか。家族みんながちゃんと食べてこれたんや。そんなお父ちゃんに、お母ちゃんは惚れてはったはずや。お父ちゃんの飲んでた熱燗も、お母ちゃんが温めてくれたんやから、最高にうまかったはずや」
じっくりと津田が語ると、安部の口元から細い嗚咽がこぼれた。
「……そんなにビールばっかり飲んでちゃ、体も心も冷えちゃうわよ」

津田が振り向くと、真知子がうっすらと湯気を立てるチロリを手にしていた。
テーブルに置かれた盃におだやかな麹の香りが揺れて、安部の鼻先をくすぐった。
「これ……いい匂いです」
無意識に、安部は盃を口にしていた。
「どや、うまいやろ。なんちゅうても“おかん”っちゅうくらいやからな」
津田がにんまりとしてそう言うと、松村がもうひとつのチロリを「カーン」と叩いた。
「はい!残念ながら、鐘ひとつでした。おあとがよろしいようで」
涙に濡れたままの安部の笑顔が、4人の声といっしょに揺れていた。