Vol.41 おせち

マチコの赤ちょうちん 第四一話

やわらかな陽光の中、マチコの小窓から白い湯気が立ち昇っている。
元旦の朝、通りには人影もまばらだった。
1月1日に玄関を塩で清め、そして店の小さな神棚に献酒し、心新たに手を合わせるのも真知子は3度目となっていた。しかし、今年のマチコには彼女のとはほかに、もう一つの“かしわ手”が鳴った。
ポーン、ポーンと胸に響く大きな音に、真知子はふっと幼い頃の正月の光景をよぎらせた。
「うむ!こいでよか」
太い声でそう言い、しげしげと店内を見回す父親の逸平に、真知子はため息とも安堵ともつかない声を「ふぅ」と洩らした。
マチコのテーブルに座る父が、宮崎の畑で見る時よりもやけに小さく思えた。髪は薄くなり、額や頬のしみも少し増えたようだった。
逸平は、大晦日の朝に突然「明日、東京に行くが。正月はおまえの家におるがよ」と電話してきた。
あれほど都会嫌いで出不精な父がいったい全体どうしたのかと、真知子は「なして?」と郷里言葉で訊ね返した。
逸平は「おまえの店ば一度は見ちょらんと、死ぬに死ねんばい」などと笑ったが、それは表向きで、婚期も遠くなっている娘にひと言もの申さねばと、シビレを切らしているのだろうと真知子は勘ぐるのだった。
実際、母が亡くなって4年、帰省するたびに逸平の口からは「孫の顔は、いつ見れると?」の声がこぼれるようになった。煙草をくゆらせながら、あまり関心なさげに言う逸平だったが、本音を隠したような遠い目に、真知子は父の孤独をあらためて感じ取っていた。
羽田空港に着いた逸平の手には、大きな風呂敷包みが提げられていた。
「母さんの着ちょった、泥大島じゃ」
逸平がそんな行動を起こすなど、いまだかつてないことだった。
真知子はその着物を纏って、新年を迎えた。母の匂いがしみこんだ大島紬は、真知子の肌をやさしく包んだだけでなく、素直な心にさせていた。
「ねぇ父さん、本当は、うちに、早う嫁ば行かんか言いに来たとね?」
ようやく出来上がった宮崎風のおせち料理を運びながら、真知子はそう訊いた。
ささやかな重箱には、切干大根や大きな海老、母の得意だった“いもぬた”も作って入れてみた。
黙っていた逸平が、しみじみと真知子を見つめて言った。
「紬の似合う歳ばなったと……母さんの若か頃に、よう似ちょる」
「はぐらかさないで……父さん、私まだまだ、結婚なんてする気ないよ」
真知子はしゃんと背筋を伸ばし、言葉遣いを元に戻した。
顔をまっすぐに見返す真知子に逸平は苦笑いすると、煙草を一本取出し、テーブルの上でトントンと叩いた。
「そんげ強情なとこも、そっくりじゃ」
紫色の煙が、二人の間を静かに揺れていた。
ふいに逸平が、口を開いた。
「まあよか、今日は正月じゃ。真知子、焼酎は無かと?」
「宮崎の芋焼酎は無いわよ。うちは、日本酒のお店だから」
立ち上がった真知子が普及品の麦焼酎の瓶を取ると、逸平はしかめっ面をして声を荒げた。
「そんげ酒は、飲めん!ほがねえ都会者と同じじゃ!真知子、わしはお前のため思うて、ここまで来たっど。一度ぐらい、田舎で見合いば、してみんと!」
それを機に、堰を切ったように逸平が話し始めたのは、宮崎の酪農家の跡取り息子との見合いだった。
真知子はいつしか、青春時代の自分に戻っていた。いったん逸平がこうなると母も真知子も座らされ、ただ頭を垂れて聴くのが常だった。
逸平は、宮崎の自然の中で、人情豊かな土地で過ごした者同士で家庭を持つことが一番幸せなのだと説いた。お前だって今は気丈夫でも、都会で一人でいると、いつかは宮崎が恋しくなる。その時にわしが生きてなければ、もう帰る場所は無いではないか。一時も早く、宮崎の男と一緒になれと諭すのだった。
置いたままの煙草が灰になるほどの、長い言葉だった。ようやく逸平の口調が落ち着くと、黙していた真知子がやわらかな笑みを浮かべた。
「父さん……地酒、飲んでみない?」
「日本酒か……ああ、よかよ」
真知子は、盃一杯ずつの冷酒を幾つも用意した。
「これは、何の真似と?わしは、日本酒をこんげには飲まんちゃが」
「まあ、いいから。少しずつ飲んでみてよ」
そう言って真知子は、節くれた逸平の指に小さな盃を渡した。
渋々ながら口をつける逸平の表情が、盃をなめるたび穏やかになっていった。
「こりゃ、うんめ……いいや、うまくはなか!じゃども、なかなかイケるもんじゃ」
「そうでしょ。日本酒って、いろいろな土地の風土や暮らし、伝統や習わし、喜びや悲しみが詰まっていると思うの。だから私は大好き。分かる? 父さん……私は宮崎の焼酎も好きだけど、日本酒がもっと好き。この赤いちょうちんと日本酒を愛してくれる、いろいろな人たちと知り合いたい。それが、今の私の幸せだし、これからもそうありたい」
頬杖を突く真知子の前で、逸平は腕組みをしたまま、空になった盃を見ていた。
そして、おもむろに皺深くなった額を上げて、もう一度真知子を見つめた。
「どうやら、母さんの着物の力も通じんちゃ」
やれやれといった表情の逸平は、酒をくれとばかり、空いた盃を真知子に差し出した。そして、ようやく重箱のおせち料理に箸をつけた。
真知子はゆっくりと立ち上がると、逸平の肩に手を置いた。店に差しこむ陽射しが逸平の丸い背中を温めていた。
父の懐かしい匂いがしたが、ずいぶんと肩の肉が落ちたように思えた。

「わがままな娘で、ごめんね……」
真知子の声が、少し震えていた。
「まあ……こんげ“いもぬた”の味では、まだまだ帰れんちゃ。母さんの味には、ほど遠かもん。わっはははー」
強がるような、しかしながら娘への愛情に満ちた父の言葉だった。
その時、真知子の瞳から一粒の光がこぼれ、逸平の背中にしみていた。