Vol.57 タコ壷

マチコの赤ちょうちん 第五七話

小さなフェリーの甲板に出ると、残り少ない夏の海の匂いが、真知子の胸いっぱいに広がった。風が、柔らかな髪をなびかせる。
「う~ん、いい潮の香り」
青い瀬戸内海に向かって大きく伸びをする真知子の声を、ポーっと汽笛がかき消した。舳先の向こうに見える島は、まばゆい陽光に包まれていた。
呉市の江田島に降り立つのは、小学校の修学旅行以来のことだった。
目を背けたくなるような広島の原爆ドームの記憶は色濃く残っているが、それよりも、この島から眺めた青い海と漁港に揺れる干しダコが、真知子には懐かしい。
3日間を宮崎の実家で過ごし東京へ戻るはずの真知子だったが、盆明けにふと津田と交わした話しがきっかけで、途中下車の旅を思い立っていた。
「わしも小さい頃、江田島へ遊びに行ったら、港にタコ壷がぎょうさん積まれとった。あそこは、戦時中には海軍の基地があってな。戦後の復興期には造船と漁業が盛んやった。けど、もう今は、どっちも寂れてしもうてんのちゃうか。昔は、タコ壷の窯元も何軒かあったんや。そこに置いてあった大きな壷に、悪ガキ同士で名前を彫ったことを憶えてるわ。大ダコでも入りそうな、お飾り用のむっちゃでかいヤツやった」
そんな津田の思い出話しも、真知子に少女のような旅心を抱かせていた。
津田は嬉しそうにタコ壷の絵手紙を書いて、「もし、その窯元が見つかったら、これを渡しといてくれへんか」と真知子に託していた。
ツクツクボウシの声を聞きながら、石垣が続く島の小道を歩いて行くと、見覚えのある波止場にたどり着いた。
「あっ! ここだ! それで、後ろに干しダコがドッサリ並んでて……」と真知子は振り返ったが、そこには朽ちた刺し網が捨てられているだけだった。
港にひしめき合っていたはずの干しダコは、片隅に数匹ぶら下がっているだけだった。そこに近づこうとした時、ガッチャン! と大きな音が響いた。
続けざまにガシャン、ガチャンと鳴る方へ、真知子は驚いて小走りした。
錆びついた漁船の裏側で、赤い顔をした中年の男が、何十個ものタコ壷を粉々に砕いていた。
「くそぅ! おんどりゃ! あほだれが」
男は酔っているようだった。年齢は、真知子とさほど変わらないように思えた。
次の瞬間、勢いよく投げつけた壷の破片が男の右腕に跳ね返り、かけらは真知子の足元まで飛んで来た。
「わっ! 痛っ」
のけぞるように、男はドッと倒れ込んだ。
「ちょっと、ねえっ! 大丈夫ですか!?」
真知子が慌てて駆け寄ると、男の体からはプ~ンと酒の匂いがした。
「放っちょけぇ~。くそがっ、ブチ腹の立つ!
ふらつきながら半身を起こす男の広島訛りに、真知子は少したじろいだが、肘を流れる血を放っておくわけにはいかなかった。
「何をしとんなら! いらんことせんでええんじゃ」
引き裂いたハンカチを巻こうとする真知子の手首を、日焼けた男の腕がムンズとつかんだ。
「あっ、い、痛い!」
ゆがんだ真知子の顔を男はじっと見つめていたが、フッとため息を吐くと「……あんたの手ぇ、やおいのう」とつぶやいた。
真知子がハンカチを巻く間、男は何も言わず、片手でタバコに火を点けた。
「礼は言わん。わいは、たいぎいのは好かんけぇのう」
「いいわよ、お礼なんて。でも、一つ訊いてもいい?」
真知子が、足元のタコ壷のかけらを拾って言った。
「何じゃ? ……まあ、ええ。言うてみんさい」
男の目はまだ充血していたが、口調は落ち着いていた。
「これ……タコ壷でしょ。私、小学校の時にこの島に来たことがあって、その時のこと、とってもいい思い出なの。海の色も、干しダコも。でも、今はどうなってるの?」
そう訊かれた男も壷のかけらを拾うと、ポトンッと海に投げ込んだ。
「タコ壷は無うなるけん。もう、何もやれんのじゃ……」
弱々しい声と同じように、かけらがクルクルと水中に消えて行った。
男は仰向けになると青い空を黙って見上げていたが、ポツリポツリと自分と島のことを話し始めた。
名前は、湊 信一と言った。父親、祖父、曽祖父も、島の漁師として生きた。そして、素焼きのタコ壷を代々焼いてきた窯元でもあった。
案の定、津田の言った通り、今やタコ壷はプラスティック製に取って代わられ、なおかつ漁獲高も激減。島のタコ漁が不振を極める中、年々、外国産のタコに地元市場を奪われるようになっていた。
湊家では、昔ながらの老練な漁師たちに、わずかながらのタコ壷を焼いていたが、毎年、漁師の跡継ぎが減り、今年を最後に廃業することとなったのだった。
半年前に亡くなった父親は「窯元は辞めても、細々と漁師を続けながらタコ漁の伝統は残してくれ」と言い残したが、信一は「これ以上貧乏しながら中途半端に続けるのは、まっぴら御免じゃ」と広島市内で働き口を探していた。
「まあ……あんたもせっかく来たんじゃけぇ、ええもん見しちゃろ」
そう言って信一はゆっくり立ち上がると、真知子に向かってヒゲの伸びた顎をしゃくった。
風に揺れる松林を抜けると、古びた上り窯が現れた。
「こっちじゃ」と呼ばれ、中庭に入った真知子は「あっ!」と息を呑んだ。
煤けた壷や割れた陶器がうずたかく積まれた中に、真知子の背丈ほどもあるタコ壷が置かれていた。
「これは、タコ漁が盛んじゃった昭和の30年代に、家の看板代わりに、わいの祖父さんが焼いたもんじゃ。観光客とかの落書きがいっぱいじゃろ。けど、これも、もういらん。持っておっても、空しうなるだけじゃけぇ」
そう言って大壷を叩く信一の横で、真知子が一枚の紙を手にしていた。
「な、何じゃ、そら?」
信一が怪訝な顔で紙を覗き込むと、真知子が「ほっ、ほら、この絵……」と声を止めて、壷肌を触った。
「おうっ! こっ、こら、同じじゃ。この正造ちゅう字は、わいが生まれる前から彫ってあったもんじゃ」
目を丸める信一に、「……この名前は、ずっと昔に江田島に着た私のお友達が削ったもの。だから、この壷はその人の大切な思い出なの」と真知子は答え、津田の話しを語り、手紙を渡した。
信一は、渡されたタコ壷の絵手紙を読みながら、口元をぐっと噛みしめていた。
「湊さん……確かに、壷を壊すのはあなたの自由。でも、この島に来た人たちの心も、この壷には詰まっている。壷を壊すことは、いつでもできるわ……でも思い出は、ずっと壊さずにいて欲しいの」

肩を小刻みに震わせる信一は、真知子をじっと見返すと、やにわにタコ壷の中へ顔を突っ込んだ。
「……分かっちょる。それは……わしが一番、分かっとるけぇ」
信一の鼻詰まった声が、大きな壷の中でやさしく響いていた。