Vol.59 儲け

マチコの赤ちょうちん 第五九話

「いやぁ~、日本酒の秋! 味覚の秋! そして、ギャンプルの秋っすねぇ」
マチコの小窓からは、やたらと上機嫌な声が洩れている。カウンター席で、赤ら顔の松村が4杯目の大吟醸を飲み干していた。
目の前に並ぶ肴はてっさやカラスミなど、いつになく豪勢だった。
その隣では、しかめっ面の澤井が「ふんっ! おもしろくねえ」と定番の本醸造をあおっていた。
「和也君、たまに勝ったからっていい気になってると、大きなツケが返って来るわよ。それに、あんた来週パパになるんだから、しっかり貯金しときなさいよ」
久々に競馬で大勝ちしたとはしゃぐ松村を、真知子は澤井や周りの客たちの渋い顔色と比べながら咎めた。
「いいの、いいの。カミさんも実家だし、こんな贅沢できるの、今しかないじゃん。あっ、澤井さん、グラス空いてるじゃないの。俺が奢りますよ、真知子さん、大吟醸の古酒をお願いします」
「うるせえっ! いらねえよ、バカ野郎」
声を荒げた澤井は、新しい冷酒グラスを取ろうとする松村の手を払った。
松村に悪気は無かったが、つい先週、オートレースで大負けして虫の居所の悪い澤井にしてみれば、治りかけた傷口を突付かれたようなものだった。
「何だよ! バカは余分だろ。はっは~ん、澤井さんスネてんの?」
酔った松村の一言に、苛立っていた澤井がふいにキレた。
「おい、調子こいてんじゃねえぞ、和也!」
その声が澤井の口から飛び出すやいなや、チェイサーグラスに残った水が松村の顔に弾けていた。
唖然と濡れそぼる松村だったが、我に返ると、鼻息を荒くして澤井の胸ぐらをつかんだ。
「ちょっと、あんたたち!止めなさい」と真知子が二人の間に割って入った途端、後ろから聞き慣れた声がした。
「何やってんだよ。お客さんの迷惑だろ、喧嘩なら外でやりなよ」
呆気にとられている客たちの前に、秋月商店の宮部が立っていた。
宮部に諌められた澤井は握りかけの拳をゆっくりと下ろしたが、収まりがつかない松村は「ちっくしょう、俺は悪かねえぞ」と捨て台詞して、店を出て行った。
「いったい何だってのよ。まったく、大人げないわね」
そう言って溜め息をつく真知子の肩を、宮部は「まあまあ」という表情で軽く叩いた。
「しかし、澤井ちゃんでもキレることがあるんだ。驚きだね~」
宮部は言葉上手に澤井を落ち着かせると、松村の残した酒や肴をもったいなさそうに見つめて、タバコに火をつけた。
「すみません。つい、やり過ぎちゃって……面目ない。オートレースで負けた日のことを思い出して。あの日、レース場に息子を連れて行って、余計なことをしちまった。それが原因で、カミさんと大喧嘩しちゃってね」
澤井はカウンターに飛び散った水滴を見つめながら、その日のことを話し始めた。
最終レースまで粘り、さんざんに負けた澤井は、小学2年生の息子を連れてレース場の食堂に入ろうとした。とその時、上着の袖を引っ張られ、ふと振り向けば薄汚れた老人が立っていた。
老人は両手を合わせ「旦那、お願いだ。家へ帰る電車賃がねえもんで。助けると思って、500円ばかし、めぐんでおくんなさい」と、二人の前で土下座した。彼はろくに食べてもいないのか、折れそうなほど細い足腰をしていた。
「何を言ってんだよ、こっちが助けてほしいよ」と澤井はためらったが、じっと老人を凝視している息子を前にして、無言で500円硬貨を渡したのだった。
翌日、その一部始終を澤井の妻は息子から聞き出していた。
何て馬鹿なことをするのか。そんな堕落した人間を助けるなんて、子どもの教育上良くない。今から世の中の仕組みやルールを、きちんと教えるべき。
金輪際、競馬だろうがボートだろうが、息子をレース場に連れて行くのは厳禁だと叫んだ。
「なるほどね……母親としては、そうでしょうね」
真知子が本醸造の瓶を持ち上げると、澤井はコクリとうなずいてグラスに酒を受けた。
「ったく……今回は、何もかもが大損なんだよ。それでつい、和也にもカッとなっちまってさ」
「けどさ……考え方によっちゃあ儲かってると、俺は思うよ」
タバコの煙を鼻から昇らせながら、宮部が言った。
「って、どう言うことだよ?」
訊ねる澤井の向こうで、テーブル席の客たちが聞き耳を立てていた。
「その500円のことって、今時の子どもたちはなかなか経験できないだろ。俺に言わせりゃ、テレビゲームに齧りついてる頭でっかちなガキより、よっぽどいい体験をしてるよ。それに、子どもに良いとか悪いとか、そんなの今すぐ決められるもんじゃない。それは、本人が大人になっていく過程で、人生の反面教師にしたり、反面、人への慈しみや愛情を感じていくことだろう。 だから、その日の澤井ちゃんは、本当は儲かってんだよ」
宮部は澤井の本醸造を取り上げてグッと飲み干すと、「てことで、大吟醸ね」と真知子に注文した。
「ふっ……まあ、いいか」
澤井は、胸の中で宮部に感謝した。
その時、テーブル席の客がざわついた。真知子たちが顔を向けると、松村が恥ずかしげな顔つきで入って来た。
「澤井さん……ごめんなさい。俺、生意気でした」
「いや、俺も悪かった。すまなかったな」
差し出した澤井の手を、松村の手が握った。
「よっし! これで一件落着。真知子さん、飲み直し、飲み直し」
宮部がいそいそと、冷酒のクーラーを物色し始めた。
「そうね。じゃあ、さっきのお言葉に甘えて、今夜は和也君の奢りってことで、ジャンジャンいっちゃおうね。ただし、和也君は有り金を全部置いてくこと」
真知子の言葉に、宮部は「了解!」と酒瓶を取り出し、あちらこちらの席にふるまい始めた。

「ちょっ、ちょっと。そりゃあんまりだよ、真知子さん。な、何でだよ」
「心配しなくても、お釣りはちゃんと返すわよ。ただし、由紀さんにね」
真知子の指が、忙しく伝票を繰っていた。
「うぇ! そんなのないよ。澤井さんの大損が移っちゃったよ~」
秋の長い夜に、マチコの客たちの歓声が響いていた。