Vol.60 レギュラー酒

マチコの赤ちょうちん 第六〇話

「うん、ようできた“あらばしり”や。今年の初搾りの酒としては、上出来やな」
カウンター席に腰を下ろすなり真知子からきき酒を頼まれた津田が、口を丸めながら答えた。透明な瓶には薄白く濁った酒が半分ほど入っていて、空けた口から、ほのかに甘いモロミの匂いが漂っている。
テーブル席には2、3人の馴染み客が座っていたが、一様にご相伴にあずかっているようだった。
固唾を飲むような顔で津田を見つめていた松村が、「そうでしょう。やっぱ津田さんも美味いと思うでしょ」と声を高めた後で、溜め息ともあきらめともつかないような声を洩らした。
松村の横で、澤井は同じ酒の入ったグラスを揺らせながら、「う~ん、お前が親父さんに送った酒だけが、まずかったってことかなぁ?そんなことは、ありえないと思うけど」と小首をかしげた。
「ところで、いったい何があったんや?きき酒の意図を教えてくれへんか?」
ようやくソフト帽を脱いでタバコに火をつけた津田が、おしぼりを手渡す真知子に訊ねた。
「親の心いまだ子知らずって言うか、子どもができたってのに、先が思いやられる誰かさんがおりましてねぇ」
口元をゆがめる真知子の視線が、空の冷酒グラスを弄ぶ松村を指していた。
「子ども?おっ、おお~!コロッと忘れてたがな。和也君、これ、わしからのお祝い」
津田は背広の内ポケットから熨斗袋を取り出し、和也に差し出した。
10日前に、松村は父親になっていた。母子とも健康で、松村に似た男の子が生まれたと、津田は真知子から聞いていた。
しかし、心ここにあらずといったようすの松村は「あっ、どうもすみません」と、軽い会釈で祝いを受け取ろうとした。
「こら和也!そこがガキなんだって言ってんでしょ!」
真知子が珍しく声を高め、熨斗袋を受け取ろうとする和也の右手を菜箸で弾いた。
「いてっ!何も叩かなくたっていいじゃない。それに津田さんは仲間なんだし、俺、親しみこめてるつもりなんだけど」
すねたような顔で真知子を睨み返す和也を、「ったく」と澤井がとがめかけた時、またもや真知子の罵声が飛んだ。
「バーカ!だからあんたは、お父さんが好きな酒の味も分かんないのよ。何でも自分がいいと思うことが、人様もいいとは限らないのよ」
「何だよ、それとこれとは、話しが違うだろっ!」
売り言葉に買い言葉、姉弟喧嘩さながらにやり合う二人に、「まあまあ、もうええがな。真っちゃんも今日はどないしたんや。いつものあんたらしいないなあ」と津田が割って入った。
静まり返った店内に、真知子はハッと我に帰り「ごめんなさい。お騒がせしちゃって」と頭を下げた。
澤井は、黙りこんでいる松村の肩をポンポンと叩くと、「こいつ、田舎の親父さんと、ちょっとひと揉めありましてね」と津田に内情を語り始めた。
子どもが生まれた翌日、松村の家には親友の新潟の蔵人から初搾りの酒が祝いとして3本届いた。その1本が今皆で飲んでいる酒なのだが、松村はまずは彦根に一人暮らす父親に、その美酒と生まれたばかりの孫の写真を送った。
そして3日前、松村は、京都への出張帰りに有給をとって実家に泊まった。
うまい酒を酌み交わしながら、父の喜ぶ顔が見たかった。
ところが父親は、松村の送った酒を一口飲むと、いつもながらの地元のレギュラー酒を取り出し、コップ酒を傾けた。
その夜は、お祝いがてらにと、近所の親戚やいとこたちも集まって来た。
そして、賑やかな宴が終わり、父親は松村の送った酒を「お前たちで飲め」と、あっさり叔父に手渡したのだった。
「そんじょそこらで手に入る酒じゃないのに、何で簡単に渡すんだよ。この酒を一緒に飲みながら、あんたの喜ぶ顔が見たかった……俺、そう言って怒鳴ったんです。でも、親父は『この酒は、俺には美味くない』って、ずっといつもの酒を飲んでた」
松村の高い声が、声をひそめて事情を話していた澤井を止めた。
ふたたびしんとした店内で、真知子の拭く皿がカチャカチャと鳴った。
「さよか……和也君、親父さんは何でいつもの酒を飲んでたか、分かるか?」
津田の吐き出した白い煙が、ふわりふわりと優しげにカウンターを漂った。
頬が赤くなった松村は、黙ったまま首を横に振った。
「誰にでも、人生の酒ちゅうのがあると思うねん。わしは楽しい時、嬉しい時に飲んだ酒は、あんまり憶えてないなぁ。悲しい時や苦しい時を乗り越えさせてくれた酒……そんな酒をよう憶えとる。今でもその酒を飲むと、しみじみ人生を振り返ることがでける。あんたの親父さんも、そうやったんちゃうか。息子もようやく一人前になって、孫も生まれた。けど、お母ちゃんはもうおらへん……いろんな思い出が、親父さんの中でめぐってたんとちゃうかな。それとなぁ……照れくさいねや、面と向かって、お祖父ちゃんになったって言われるのがな」
津田の笑顔としみ入るような声に、店内の客たちも無言でうなずいていた。

ふと真知子が目をやると、うなだれた和也の肩が震えていた。
「バカ野郎。いい歳こいて、泣いてんじゃねえよ。息子に笑われっぞ!」
澤井の広い肩が、松村の肩を兄のように小突いた。
「ほんとに、世話の焼ける弟なんだから」
涙目になった松村に、真知子がすっと酒の瓶を傾けた。
「ご、ごめんなさい……あのさ、訊いていいかな?真知子さんの人生の酒って、何なの?」
恥ずかしいのか、酔ったのか、松村が真っ赤な顔で真知子に訊いた。
「そうね……ここで、みんなと一緒に飲むお酒が、私の人生のお酒ね」
津田と澤井、ほかの客たちの柔らかな拍手が、真知子の格子戸から聞こえていた。