Vol.62 ファイト!新潟

マチコの赤ちょうちん 第六二話

マチコの玄関先に、色づいた落ち葉がカサカサとつむじを巻いていた。
秋の柔らかな夕日が、カウンターで夕刊を開けている津田の横顔を赤く染めている。午後4時半を過ぎたばかりの店内には、津田と真知子のほかには誰の姿もなかった。
「しかし、今回の地震は長引いとるなあ。わしがもうちょっと若かったら、新潟に飛んで行くねんけどな」
津田は老眼鏡の奥の目を細めて、ほうっとため息を吐いた。
マチコは茹で上がったばかりの枝豆を津田に出しながら、「例の灘の蔵元さんの仕込み水、新潟の被災地に送ってあげたの?」と訊ねた。
津田は、ぬる燗の盃をぐぃと飲み干して答えた。
「ああ、酒蔵の社長さんにお話ししたら、『それはええことや』と快う引き受けてくれはった。もう、タンクローリーが何台か行ってるはずや……神戸の地震で死んだ弟も、喜んでくれてると思うねん」
あの阪神淡路大震災で、灘の蔵人をしていた弟を失った津田には、今回の中越地方の震災は身につまされる事件だった。まずは、飲料水が不足すると思った津田は、弟が勤めていた酒蔵に井戸水の提供を打診していた。
遠い目をしている津田に、真知子はぬる燗の徳利をゆっくり傾けた。
「おおきに……」
津田の言葉が途切れると、シュンシュンと沸くヤカンの音だけが店内に響いた。と、その時、格子戸がカタカタと開いて、長髪に無精髭を生やした逞しい体躯の男が入って来た。
今しがた山から下りて来たような汚れたジーンズとジャンパー姿、背中には大きなリュックを背負っている。
真知子は思わず身構えたが、その浅黒い顔の中に、一瞬、見慣れた笑顔が覗いていた。
「えっ……塚田君?」
真知子の目に映るむくつけき男が、春先までカウンターに座っていた塚田哲也には見えなかったが、優しげなまなじりだけは変わっていなかった。
「おっ、おっ、おお~、塚田君かいな!どこの野人が現れたかと思うがな」
目を丸めて興奮する津田に、塚田はかしこまってお辞儀をした。
「真知子さん、津田さん、ご無沙汰してます!」
塚田が動くと異様な体臭が漂い、津田が叫んだ。
「く、くっさ~。なんじゃ、この臭いわ!」
真知子も突然の塚田の訪問と変貌に驚きつつ、鼻をつまみながら言った。
「まったく、驚かさないでよ。突然、どうしたの?あんた、飛騨で茅葺き職人をやってるはずでしょ?」
無意識に後ずさりする真知子に、塚田は自分の腕を嗅いで「俺、そんなに臭いですか?」と笑った。
「たまんないわよ、はっきり言って。お風呂入ってんの?」と、真知子は3、4本の熱いおしぼりを塚田に渡した。
「すみません。……一週間ほど新潟へボランティアに行ってて、その帰りなんです」
顔を拭ったおしぼりの汚れをしげしげと見つめながら、塚田が答えた。
その言葉に真知子が「えっ!」と叫んだ。津田は「うむ……」と頷くと、「どうや、一杯」とカウンターに座った塚田に徳利を差し出した。
塚田は「久しぶりに津田さんと飲めるなんて、最高です!ボランティアの疲れが取れちゃうな。いただきま~す」と、芯から嬉しそうな表情で酒を受けた。
しばらく見ないうちに職人らしくなってきたが、まだまだ青年の雰囲気を残している塚田に、真知子はクスッと笑いをこぼして言った。
「でも、一週間も、よく仕事を休めたわね」
すると、塚田は真剣な面持ちに変わって、ことの成り行きを話し始めた。
「実は、飛騨の親方が地震の翌々日に新潟へ行くって言い出したんです。田舎町の被災した古い家を直そうと、職人たちを連れて車で新潟入りしようとしたんですけど、道路が寸断されてて。それに親方は70歳で、歳が歳ですから、奥さんと娘さんが必死になって止めたんです。結局、その話は消滅しちゃったんですけど、俺はいてもたってもいられなくなっちゃって……」
新潟行きが立ち消えになり、同僚の中にはほっと胸を撫で下ろす者もいた。
「俺たちに金や力は無いし、右も左も分からない土地へ行っても足手まといになるだけだろ」と意見する兄弟子に、塚田の気持ちはわだかまったままだった。
まんじりともせず翌朝を迎えた塚田は、親方の前に行き「俺一人でも、行かせて下さい」と頼んだ。
親方は喜び、二の句もなく了解してくれたが、目的地は惨憺たる状況で、二次災害の恐れもあり、塚田は町中の清掃や炊き出しなどのボランティアに向かうことになった。
「実は、親方のご先祖は被災した中越地方の小さな村の出身で、今はもう親戚縁者も暮らしてないのですが、子どもの頃に何度か行ったことがあるそうです。だから人一倍、想いがあるんでしょうね。それを聞いて、俺、こんなことを思いついて」
塚田は携帯電話を取り出すとムービーモードにして、録画している映像を津田に見せた。
「ほう……ええなあ。被災地の皆さん、元気になりはったやろなあ」
タバコの煙の中でほほ笑む津田に引かれ、真知子も「どれどれ?」と携帯電話を覗き込んだ。
そこには次々に飛騨の茅葺き職人や地元の人たちが現れ、被災者に一言ずつのお見舞いと励ましを叫んでいた。
コチコチに緊張している親方、ちょっとはにかむ農家のお婆ちゃん、肩を組んで「新潟、がんばれ~」と叫ぶ若い職人たち、歌を唄って励ます女子高生……ちっぽけな電話の画面に、大きなメッセージが映し出されていた。
「何も持ってない俺に、いったい何ができるだろうかって、考えたんです。避難所の皆さんが、とっても喜んでくれました。ありがとうって、飛騨の皆さんによろしく伝えてねって」
そう語ると、塚田の目じりが濡れていた。

真知子が塚田の両肩にそっと手を置き、「おつかれさま」と労った。
「お金や物とちゃうねん……一番大事なもんはな、心なんや。塚田君、あんさんもやっぱり、マチコの人やなぁ」
津田はもう一度、満面の笑みで塚田に徳利を傾けた。
塚田の携帯電話の中で、いつまでも、たくさんの「ファイト!新潟」のメッセージが続いていた。