Vol.61 しじみ汁

マチコの赤ちょうちん 第六一話

つるべ落としのように沈む夕日を背に受けて、松村がマチコの暖簾をくぐった。
カウンターには真知子と澤井、久しぶりの水野が腰を下ろし、どことなくしんみりとした雰囲気を漂わせていた。テーブル席に座る顔見知りの客たちも、松村と視線を合わせるや、遠慮気味に小さな会釈を返した。
「こんばんは……」
いつにない様子が気になった松村は、声を低めて真知子に言った。
その声に振り向いた真知子の目が、真っ赤に潤んでいた。水野の顔は紅潮し、澤井は今にも泣き出しそうな表情だった。
「えっ、あっ、あの、みんなどうしたの……いったい何が」と松村が訊ねようとした時、彼の目にカウンター前に吊られた銀色の懐中時計と白い菊を活けた花瓶が映った。
懐中時計はガラスが割れ、針も止まっていた。
「えっ……も、もしかして……辻野さんが!?」
動転した顔で、松村が叫んだ。真知子が「うう…」と口元を押さえ、カウンターに顔を埋めた。震えるその肩に手を置いて、水野が答えた。
「1時間ほど前に、辻野さんのおふくろさんから電話があってね……。亡くなったそうだ。夕方、農作業から帰って来て、急に倒れた。心臓発作らしいよ。自分に何かあったら必ずマチコへ電話するようにって、毎日言われてたそうだ」
水野の鼻詰まった声が、シンとする店内にゆっくり流れた。
「そ、そんな……うっ、嘘だろ。あんなに元気だったじゃないですか!」
松村は放心状態のままでドスンと鞄を床に落とし、崩れるようにカウンターへ凭れかかった。
「……昼過ぎに、辻野さんから青森の十三湖で獲れた天然のしじみ貝が届いたんだって。体にいいから、酒飲みには特効薬だから、みんなで食べてくれってなぁ。夕方に真知子さんがしじみ汁の支度をしかけた時、カ、カウンターの柱から懐中時計が、は、は、外れて落ちた……。そ、それで胸騒ぎがした小一時間後、連絡があった……」
澤井もこらえきれず、とうとう嗚咽を洩らした。
そんなようすに、今しがた来たばかりのテーブル客が「……あの、今日は帰ります。また真知子さんの元気な日に来ますから」と、水野に告げて帰って行った。
「真知子さん、大丈夫かい?今日はもう看板にして、臨時休業した方がいいんじゃないか」
水野は客を送り出して席に戻ると、表情を曇らせながら、落胆している真知子に声をかけた。
「ううん……もう、大丈夫。ダメよね、こんなじゃ。もっとしっかりしなきゃ、辻野さんに申し訳ないわ。とにかく今夜は……せっかくのしじみ貝、みんなで頂きましょう。それが、まずは何よりのお悔やみだと思うの」
真知子は両手で瞳を拭うと、エイッと気合を入れて立ち上がり、厨房で大粒のしじみ貝を洗い始めた。
「和也君、悪いけど、その手紙をみんなに読んであげて。私、しじみ汁はどうにか作れそうだけど、手紙を読むことなんてできそうにもない。それに……あんたは、辻野さんに一番お世話になってるんだからね」
真知子が、カウンターで開いたままになっている手紙を目で指した。その瞳は、ようやく輝きを取り戻しているようだった。
「お、俺にだって、無理だよ。そんなの辛すぎるよ」
松村が、止まらない鼻水をハンカチで拭きながら答えた。
「私だって辛いわよ。けど、みんなに辻野さんの気持ちを感じてほしいの。あんたのことを、特に辻野さんは気にしてくれてるのよ」
またもや滂沱しそうな真知子の顔を見て、松村は歯を食いしばり手紙を読み始めた。

前略 真知子 様
津軽の里は、もう秋一色。朝夕はめっきり冷え込んでまいりました。
皆様、お変わりなくお元気でしょうか。
今年は台風ですっかりおかしくなりましたが、それでも津軽の自然は大したもので、右往左往する人間様などものともせずに、しっかりと立ち直っています。
小生も老いたる母と野を耕し、土と戯れることで、自然が与えてくれる大切なものを日々感じております。
それは、感謝や思いやり、心の豊かさのようなもので、そこには、いつもマチコでご一緒できた皆様との思い出が、走馬灯のように甦ります。
今夜も美味い津軽の酒を飲みつつ、まだまだ人生これからと、皆様と再会できる日を楽しみにしております。
さて、同梱の品は、地元の十三湖名産のしじみ貝です。
養殖物とは異なり、粒も大きく、味、栄養とも濃厚。肝臓に格別よろしいようで、お客様たちの健康にお役立て頂ければ幸いです。
特に、松村君はお子様もご誕生とのことで、深酒は慎まれ、くれぐれも健康に気を配られるようお伝えください。
自然の中で育ったしじみ貝の貝殻ひとつにもいろいろな表情があり、それがまた、松村君や澤井君、津田さんや水野君、そして真知子さんにも似て、しみじみと懐かしく思うばかりです。
マチコは、東京の中の自然なのかも知れませんね。
では、またお逢いできる日まで。ごきげんよう。
草々
松村は言葉が続かず、何度も読み止まっていた。読み終えた時には、便箋の筆字が落とした涙で滲んでいた。
水野も澤井も、変わりばんこに手紙を読み、辻野を知るテーブル席の客たちも、鼻を啜りながら優しげな筆致に目を通していた。
「できたわよ……辻野さんのしみじみ汁」

頬を濡らす真知子は、椀を配りながら懸命に笑顔を作った。
「ちくしょう……美味しいや。でも、やけに塩っぱいよ」
汁をすする松村が、ポトリと涙をこぼした。
客たちの穏やかな顔が、椀のしじみ汁に揺れていた。